スポンサード リンク

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スポンサード リンク

米ドラマ『MAD MEN(マッドメン)』ジョン・ハム/エリザベス・モス/ジャニュアリー・ジョーンズ

マッドメン シーズン1[ノーカット完全版] コンパクトBOX [DVD]


アメリカのドラマです、マッドメン。

どのみち焼き直しに過ぎないと何度も書いたけど、ストーリーだけを観ている人々は意外に多い。もっとも大きなパイを狙えばストーリー頼みになるのかしらん。つねに観客を裏切ってゆくのはどちらも同じことだけど、さてストーリー頼みはどのようにして裏切り行為をはたらくのか。「あっ」と言わせるストーリー展開。けっきょくのところ米作は、ウルトラCを踏みはずし、ウルトラなんちゃらの崖を転がり落ちてしまった。ヨガ行者が、何時間もかけて小さい箱に入ったり、片足、頭の上、もう片方の足は反対側からまわして頭の上とか(股、裂けるぞ)、たいていのことでは「あっ」と言わなくなったので、これでもか、これでもかと奇抜なポーズを繰り出すしかない、ストーリー頼みのツラいところ。ドラマ、映画というより、素人スポーツ。わーきゃーで汗流してサッパリする後腐れのないスポーツなのである。これこそまさに「エンタメ」、それこそ狭義でツマラナイ。ともかくもう何年もこの調子だった。そのなかでもキラッと光る作品はまっとうに作られていた。『マッドメン』もその1つ。

60年代ニューヨークの広告代理店が主な舞台で、どんな話かと訊かれたら、これほどシンプルに答えられる米作は久しくお目にかかっていないだろうと、まず答えたい。はやい話が、「ある広告マンの日常」、説明は、これで終わってしまうのである。ストーリー頼みは虚脱し「仕掛けはないの?」とアッ気な表情かも。多少、色をつけて補足することもできる。当時の社会情勢、風俗など、いま観れば新鮮ではあるし、実在の人物、企業、商品、そのまま出てくるから、ちょっとした好奇心で面白みもあるだろうと。がそのていどの仕掛けでは、過去にたくさん作られている。というか、またしても焼き直し、過去と現在の落差で観せるなんて。また妻との離婚やら愛人やら、子どもとの関係、さらには職場での人間関係、駆け引きなど、「ある広告マンの日常」は動いてゆく変遷してゆく、ストーリーといえばストーリー。この流れ、このエピソード、いままでになかったか。ないわけないでしょう、先に書いたとおり。「ある広告マンの日常」。ほんとうに、これしか描かれていないのである。

ならどこが面白いのか。エミー賞、ゴールデングローブ賞、連続でもらえるほどに。
ストーリー頼みでないところが、面白いのだ。

千幾つの場面があるとして、そのうちの幾つを捨てて、幾つを残すのか。どう残すのか。この取捨選択が研ぎ澄まされていさえすれば、ウルトラなんちゃらなどやらなくとも一定以上の緊張感を保ちつつ、観客の感情を押したり引いたりできるはずなのである。私らが憧れた過去の米映画はこのように作られていたはずである。ただ通りを歩いているだけ、さっと影が見えただけ、なんでもない食事のシーン、これといって何もない日常の会話、姿は見えないけれども遠ざかっていく子どもたちの笑い声、日の出から日没、波の向こう側、荒野の馬、埃っぽい風景・・・、どれもこれも、冷めた頭でみれば、ウルトラなんちゃら的な仕掛けなど、どこにもなかったはずである。なのにどうして見入ってしまったのか。才能、技術は、構成力。じつは計算ずくの、飛び石の渡り方。1-5-10-47-62-71・・・というふうに飛び石を渡ってゆくと、その段差が空白となり、弱い電流のように緊張感が意識の外側で流れつづけ、しかもいっぱいの想像力を盛ることができ、登場人物たちは肉体をもって、そこに十分に存在できる、ホンに書かれていないところも含めて存在できる。過去作品はこのように作られてはいなかったか。マッドメンはこれに近いことをやっている。ドラマだから映画よりはいくぶん丸っこいけれど。

と褒めちぎってはみたものの、正直に言えば、シーズン1がよくて、2、3と、そのデキのよさに引きずられるかたちで減速、少々、ダレる。4から少しずつ息を吹き返し、現在にいたる。

放送は、AMCケーブルTV局。なにをやるかでモメて、それで初めての局オリジナルTVシリーズとして開始。ウケるのかウケないのか、どのようにやるのか、そのいちいちにおいて決断は正しかった。よくこれをやったなあ、と思ったりもした。



「あなたが思う恋愛は、僕みたいな男が創った。幻想だ。」
「誰かの偽りの人生が、周りを巻き込んで破滅する。」


スポンサーサイト

スポンサード リンク

韓国映画『サニー 永遠の仲間たち』 輝きのための輝き

韓国映画『サニー永遠の仲間たち』公式サイト

あちこちで試写やってた。
ほぼ日刊イトイ新聞だけで先着2000名が観れてしまったという。
2011年韓国で大ヒット、クチコミで740万人を動員したらしい。

あらすじ 完璧な夫と高校生の娘に恵まれ、幸せな日々を送っていたナミ。ある日、母が入院する病院で、高校時代の友人チュナと再会する。25年前、ソウルの女子高へ転校してきたナミを姉御肌のチュナが仲間に入れてくれたのだった。個性豊かな7人の仲間たちは、自分たちのグループを“サニー”と名付け、ずっと一緒にいようと誓うが、ある事件をきっかけに離ればなれになってしまう。25年の歳月を経て、病に冒されたチュナのため、他のメンバーを探し始めるナミ。それは人生でいちばん輝いていた日々を取り戻してゆく旅だった。
思い出される青春の日々とともに、80年代に大ヒットした曲やファッションにあふれた珠玉の物語。監督は『過速スキャンダル』のカン・ヒョンチョル。


監督・脚本 カン・ヒョンチョル
出演 シム・ウンギョン/カン・ソラ/ミン・ヒョリン/ユ・ホジョン/ジン・ヒギュン/コ・ソヒ/ホン・ジニ

配給:CJ Entertainment Japan (2011年/韓国/124分)PG-12



高校生というより、中学生のような設定だった。
輝きのための輝きだった。

監督さんの立ち位置↓。

「現在」は人生の主役を生きていない。輝きは「過去」にある。

このように漠然とでも考える人はとても多い。
はっきり言って、一般論だ。

みんなが明確な理由もなく了解していることに対して、クエスチョンを投げかけるのが基本というか、わざわざ作品にする意義だと思う。一般論で始まり、一般論で終わる場合、たいていの場合、慰労で終わる。温泉にはいって疲れをとるのといっしょで。私もリアル温泉は好きなので、この映画が提供しているであろう心地よさそのものは否定しないけれど、しかし、ちょっと立ち止まって考えてみたい。

人生の主役を生きていない人など、存在するだろうか・・・?

いい歳した大人になれば個人的な「私」以外のことで忙殺されてしまうから、「私」が濁り、くすんで見えたりする。しかしそれは単に見え方のことを言っているだけで、「私」が人生の主役を生きていないことにはならないだろう。忙殺された「私」はまるで、「私」でないように見えたとしても、「私」以外の誰だと言うのだろう。どのような生き方であれ、「私」は「私」の人生を降りることはできないし、歯噛みするほど切実に、降りれない「私」の人生の主役を、他でもない「私」が生きている。

監督さんはそう考えない。

人生の主役を生きるとは、じぶんの思い描いたような人生を生きているかどうかという意味で解釈している。思い描いたような人生を生きていなければ、「私」は主役ではないと。ほんとうに、そうだろうか。

たとえばドラマ、映画、小説、演劇など、ここに出てくる主人公、主役たちは皆、じぶんの思い描いたような人生を生きているだろうか。そうでない主役たちのほうが、数にして、ずっと多いはず。

そのほうが話が盛り上がり、ドラマチックで面白いから? 

商売人が(もの書きはみな商売人)ソロバンはじいて構成(計略)するに決まっているけれど、いちばんの理由は、それがもっとも現実的だから。リアルに描こうと思考すれば、まるで人生の主役を生きていないかのように見えてしまう。まるで「私」は奪われているかのように見えてしまう。よって奪われた場所から始まってゆく。とうぜん、いつでも「私」は主役のままで。抵抗する。なにもしない、という抵抗の仕方もある。それは拮抗する。その押し引きが人を輝かせる。いちばん輝いていた日々とは、いちばん苦しかった日々のことではないのか。

仲良しグループが再開してもしなくても、「わぁ!」っという新鮮な感情が、観る側に、わきあがってこないのである。暗黙のルールとして安定した状態で受け止めてしまう。

なぜ7人の女のコたちが高校時代、1つのグループとして集まってしまったのか。ひとりひとりの事情として。その動機づけが弱い。サニーでなければならない特別感が弱い。いちばん輝いていた(と監督さんが考える)日々を、輝かせる、反対側の闇が欠落しているせいだ。リアルに思考すれば高校生なりの闇を背負っているはずなのに、疲れた大人たち(観客)のために、そこは都合よく切られてしまったようだ。輝きは苦しみとともにある、とやはり思う。ついでに書けば、輝きというやつを、なんだか素晴らしく解釈しているけれど、これも一般的な感覚からは抜け出せていない。

輝きを希望と言い換えてみたらどうだろう。
輝きは「過去」にあり、でなく、希望は「過去」にあると。

一般的には、希望は人の前方にあると解釈されている。未来への希望とか、そういうふうに言われている。小鳥がさえずるような心地よい響きで、口の内と外と両方から謳われている。何の根拠もなく足腰も弱く、折れやすい希望だ。しかもそのとおりに事が運ばれる保障はない。明日ポックリ死んでしまうかもしれないのに。
もしもこれが人の後方にあるとすれば、実体をともなう希望となり、前方に置いた希望なんかよりも、ずっと使い道があるというものだ。かつての「私」が、現在の「私」を支えてくれている。『サニー~』では、そういうオチになっていた。

使い道が、あまりに限定的な、夢物語のような輝きは、べつに必要ないわけで。かつての「私」が良くても悪くても、現在の「私」を支えてくれていることには違いないわけで。そうして「私」はずっと主役のままで。この拮抗する日々こそ現実的な、輝きと言いたいのなら、輝きだ。「いちばん」と言いたいのなら、まだまだ先だ。だってそれは「いちばん」苦しい日々とともに訪れるはずだからだ。

デュエリスト コレクターズBOX (初回限定生産) [DVD]

映画も、その国の歴史(風土)を幾らかは背負ってしまうはず。
オチャラケた映画であっても。
『サニー~』も、まったくないわけじゃないです。機動隊(?)にもまれる場面など上手く差し込まれているし、背景にも気遣いがあり、時代を反映してもいるけれど、そういうことじゃないと思う。
最近、韓国映画『デュエリスト』をみて、ああ韓国映画と感じられた。あの粘着質。熱い偏愛。こういうことです。直接に絡めなくても韓国らしさが映し込まれてしまう。

輝きのための輝きを狙ったせいで、しかも、『サニー~』は韓国映画である必要すらなくなってしまった。観る人に負担が少ないのでそれなりにヒットするけれど、どの国でやっても、だいたいこうなる式の映画となった。

国としての歴史がうんと長く、どこをどうきっても風景から滲み出てしまうような背景の前に立てるなら、そういう国であれば、輝きのための輝きですら、そっと置いただけで映画になるかもしれない。でなければ、つねに反対側の闇を意識しつつ、根っこに動機づけを新たに植えてやる必要があるだろう。ともかく、韓国には、むいてない狙い方だと思う。

2時間ちょっとある。
映像はソツなくそれなりに上手く。
構成は中だるみして長く感じられ、もっと切れるし、魅力的な別の画を持ってこれたと思う。

出演俳優さんたちの存在に助けられた映画だった。
シム・ウンギョンちゃん(高校生のナミ)、コ・スヒさん(現在のチャンミ)、ソン・ジルさん(弁護士)がとくによかったです。画のなかに、におうような陰影として韓国の肉体(歴史)が流れ込みました。映画でなく、俳優さんが持ち込んだものです。

スポンサード リンク

Pagination

Utility

links

amazon

文学 韓国ドラマ 文学・評論 文庫新書 絵本・児童書 音楽 エンタメヘルス・ビューティー パソコン・周辺機器 ペット用品 洋書

rakuten

楽天市場 楽天ブックスTOP
楽天写真館 楽天トラベル
ホテル・旅館ランキング(全国)
楽天銀行  楽天カード
 

card

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。