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J.M. クッツェー『夷狄を待ちながら』中心と周辺

夷狄を待ちながら (集英社文庫)


J.M. クッツェー『夷狄を待ちながら』

J.M. クッツェーは、2003年ノーベル文学賞を受賞した。受賞理由として語られていたのは、「(J.M. クッツェーは)さまざまな手法を使って、外部の者が巻き込まれていくさまを驚くべき物語として描いている」、というものだった。これをなぞり、本書『夷狄を待ちながら 』の感想文を書くとすれば、それこそ驚くべき容易さでタネあかしができてしまう。クッツェーと暴力を結びつけ、寓意を読み開き、解説することは、朝飯前だ。もしかするとクッツェーは、それでよいと言うかもしれない。ぶっちゃけ、たかが文学なのである。いやそう思わないと文学は高みに昇っていけない。が最後の一文に注目したい。

これは私の夢みた情景ではない。当節のほかの多くのことと同様に、私はそれを、おかしいと思いつつもそのままにしておくのだ、あたかもとうに道に迷ってしまっているのに、どこへも行きつかぬその道をそのままずんずん進みつづける人のように。p.344



じつは、この文章に描かれていることそのものが、小説内でくり返し語られている。「あたかもとうに道に迷ってしまっているのに、どこへも行きつかぬその道をそのままずんずん進みつづける」人、人々、行為、関係、時代、動機、結果、過程、などなど、小説内に描かれていることのすべてがここに帰結する。発言者の民政官にかぎらず。
とうに道に迷っているのだ。なのにずんずん進みつづける。おかしいと思いつつも。そのままにしておく。クッツェーは、遠い世界の、ありえない話を書いたのだろうか。あるいはクッツェー自身の生い立ちから紐解き、南アフリカや、アパルトヘイトや、帝国主義などに対するエクスキューズとして描いたのだろうか。クッツェーは「そうだよ」と首をすくめて見せるかもしれないが、そんな底の浅いことをやるわけがない。たくみに組み込まれた、たくらみの一部始終をまのあたりにして、それは壮大な楽曲の、指揮者の一振りでしかないと思う。

(あらすじ)「私」は静かな辺境の地で、長いこと民政官を勤めてきた定年間近の初老の男。ある日、帝国の首都から大佐がやって来て、夷狄が攻めてくるという。大佐は万が一の事態を想定し、ぬかりなく準備をととのえるのだが・・・、静かな辺境の地に、凄惨な拷問の日々が始まった。

夷狄(Wiki) とは、書かれているとおり。クッツェーの『夷狄を待ちながら』の、いわゆるストーリーは、ほぼ Wiki の説明で事足りるかと。ようするに、そういうことなのだ。中心から見ると周辺は夷狄なのである。そうして周辺は中心へと攻撃/略奪を仕掛け、中心は周辺を蔑称でたとえる。が、説明にあるように、中心は周辺へ向けて同様の侵略行為を行わなかったということではない。あくまでも、これは中心の側に視点があり、そこから見た場合での価値基準なのである。蔑みは、奪われることへの抵抗、恐怖の裏返しであることは言うまでもない。Wiki の説明は、なかなかイケている。「(抜き出し)歴史上多くの他民族(夷狄)が進出して王朝を築いたため、実際には中華文明自体が非中華(夷狄)の影響を受けているのが実情である。」

クッツェーの『夷狄を待ちながら』に沿って、もう少し説明を付け加えると・・・、一方的に、中心の側から語られていて、周辺のようす、彼らの本意は、ボカされた向こう側に置かれている。何人かの夷狄がカギカッコ付きで話す場面も差し挟まれてはいるのだけれども、三人称複数に見えるような挟み方で、小説として、処理が、さすが。言葉じゃなく構成として組み込んでしまうところが。そうして、きちんと「私」に視点を戻してくる。つまり夷狄が受けた蔑みは、ぜんぶ「私」に戻ってくるように仕組まれている、ということだ。Wiki にあるような感じでのストーリーの流れであれば、ほんとにつまらない読み物で終わってしまっただろう。たとえば大佐の凄惨な拷問のあと、「私」を筆頭にして夷狄らが正論をぶち上げてしまうとか。大佐の行為のなかに夷狄の文化を忍ばせておくとか。たがいにやり合ってしまうとか。逆に、愛し合ってしまうとか。いろいろと、落とし穴が見える。こうなると、小説じゃなく、テレビドラマか映画か、マンガになってしまう。クッツェーの『夷狄を待ちながら』は、どの落とし穴にも入らなかった。つらい辛い小説としてのストイックさに踏みとどまった。

これにより、クッツェーの『夷狄を待ちながら』は何を得たのか。あくまでも中心の側に視点を置き、徹底して「私」に戻すことで、すでに道に迷っているのにずんずん進みつづける「全体」に対しての根方に、注視せざるをえない状況に落とし込むことができたのである。正論をぶち上げ、やり合い、愛し合ってしまっては、ズレてしまうのだ。話としては美しくとも。読み応えのあるエンタメだとしても。このストイックさは小説向きなのである。

安倍内閣による、集団的自衛権。
中心と周辺を、もう一度、思い出してみたい。

「・・・それで、お聞きしてもよければ、われわれの恐れるようなことは何かあったんでしょうか? われわれは、夜、安心して眠れるんでしょうか?」(中略)
帝国の新たな人間とは、新たな出発、新たな一章、汚れのないページを信じる者である。私は古い話を引きずって悪戦苦闘し、その話が終わりになる前に、なぜ私がそんなものをわざわざやってみる価値ありと考えたのかをそれが私に明かしてくれることを願っている。p.56〜



The Childhood of Jesus: A Novel The Childhood of Jesus Age of Iron

恥辱 (ハヤカワepi文庫) マイケル・K (ちくま文庫) エリザベス・コステロ 遅い男

J.M.クッツェーの世界―“フィクション”と“共同体” 石の女 (アフリカ文学叢書) 少年時代 (Lettres) ペテルブルグの文豪 (新しい「世界文学」シリーズ)

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アポリネール『虐殺された詩人』想像力とは驚異である

虐殺された詩人 (講談社文芸文庫) 若きドン・ジュアンの手柄ばなし (河出文庫) サロメ

「われわれの感興を喚起することばかりでなく、われわれに驚きを与えることに専念する作家たちを讃えるべきである。驚異こそ小説家の第一の関心でなければならない。ここでしばらく――現実という明確な意識が生れるまで――今日の小説の大部分において、われわれを悩ませ、ただの俗悪にすぎないこの似而非(えせ)レアリスムを脇におかなければならない。流行の心理的、感傷的自然主義を口実にして、大部分の作家はもはや彼らの想像力に訴えることすら必要としない。自伝を書くだけですべて事足りるのだ。ごくつまらぬ貧しい物語を創造することに営々としている作家たちは、たちまち有名になる。彼らには恐るべき競争相手はほとんどいない。しかし今後は事情は変わるだろう。想像力が、文学において本来占めるべき地位をとり戻すように思われる」

とアポリネールは言っている。文学のもとに据えるべき最重要項目は、想像力=驚異であると。さっそくだけど、異論もあろうかと(笑)。がどのような方法によって書かれたとしても、“動かぬ”ものは動かないわけで、文学であれ何であれ、“動かして”ナンボの基準でみれば、驚異もまた、“動かす”一要因ではある。なので私はそれほど間違っているとは思っていない。ただ彼の場合、そのやり方が、眉をひそめる人々を呼び寄せてしまうかもしれないとも思う。

少々、乱暴なのだ。書き方、構成、云々、それよりも前の、言葉の以前が無造作なのだ。突き放し方が綿密でないというか。ほんとうに彼は詩人なのだろうか。

もしやこれは性格かもしれぬ、などと思う。大衆酒場の円卓で大声を出し、口の端から酒を漏らす。ガハハと笑う。が一人になると寄り目がちに世間を見つめている。その大きな目は(じっさい、大きいかどうかは知らないが)純朴な青年そのものだ。打たれたことによる哀しみも見えるけれども、大きな背中から(じっさい、知らない)、さらに倍の大きさの、ひだまりのような影が道ばたに。この人は心根が優しい人かもしれない。大雑把で優しい男だ、私の、アポリネールは。

さて、「今後は事情は変わるだろう」か。
想像力とは便利な言葉。矮小化され、多岐にわたる。



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