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『我が心のオルガン』 イ・ビョンホン チョン・ドヨン

我が心のオルガン


我が心のオルガン
評論や評価の類いの難しさは、「良い基準」を作ってしまうことで上等な堤防を築いてしまい、それ以外は自動的に振り落としてしまうところにある。映画は役割を担い、誰かに貢献し、観た人とともに同じ経験を共有する。どんな人でも望むなら、よろこんで仲間に加えてくれる、それが本来の映画の在るべき姿だと思う。映画『我が心のオルガン』は人々を癒し元気づけてくれた。芸術スジには不評かもしれない。だが庶民にとっては、その心に寄り添い癒してくれる懐かしくも愛しい映画となっていた。
(あらすじ)高度成長期以前の1960年代、江原道の山奥の小学校に師範学校を卒業したばかりの若者カン・スハ(イ・ビョンホン)が赴任して来る。彼は、小学校への行き方を少女ユン・ホンヨン(チョン・ドヨン)に尋ねる。生まれて初めて自分のことを「アガッシ(お嬢さん)」と呼んでくれたスハ。遅れて進級した17歳の小学生ホンヨンは彼に初恋をする。しかし、スハは同僚の女教師ヤン・ウニ(イ・ミヨン)に片思い。ホンヨンは、日記帳検査をするスハに自分の日記で思いを伝えようとする。(1999年/韓国映画/参考:シネマコリア


ストーリーだけ見れば、どこがどうなのよと言いたいフシもあるだろう。なんだ初恋物語かと。
ところがこの映画は多くの人々を癒し、子どもからお年寄りまで楽しめる映画として作られている。急激に変化する社会には痛みも犠牲も伴うが、それでも踏みとどまり、過去など振り返ってなどいられない「社会」の現実とは別に、代わりに映画が人々の受け皿となって、小さく背中を押してくれる。美しい映像、絵葉書のような作られた美しさではない、美しさ。生々しい美しさ。木々や花々や空や土のにおいなどが鼻腔いっぱいに広がる美しさだ。派手なアクション映画なども映画館の大画面で観るべきだろうが、この映画の美しい映像も同様に、体ごと向こうからやって来ては包み込んでくれる、体感型の(理屈抜きの)美しさである。そこに、17歳の女の子の素足が走って行く。美しい自然のなかに埋もれるようにして生きていられた時代があった。その時代を『我が心のオルガン』は風通しよく描いていた。

けれども、これはノスタルジーではないと思う。映像自体がそのように撮られているというだけの話で、映画の全体は、単なる懐かしさを超えて、さらに先へと行っている。「あんな時代もあったね、よかったね」で終わる映画ではなく、「あんな時代もあったね、だから、きっとあなたは大丈夫」という映画だと感じられた。その「大丈夫」を貰ってお客さんは映画館を出て行ったのではないだろうか。

過去は何のために振り返るのか。
より鮮明に振り返るなら、それだけ過去から現在へと踏み越えて行くチカラも強いはず。お客に媚びるようにノスタルジーだけを演出するなら、これほど多くのお客さんを癒し元気づけることはできなかったと思う。つねにその先がある。先生と生徒のその後も描かれている。結末を付け加えるのはストーリー的には叩かれるところだろうけれど、この映画の場合は「その後」を焼き付けることで、「大丈夫」に“しるし”を付けることができたように思う。
あの17歳の女の子も、いずれ大人になって、良いことばかりではなく、生活に疲れることもあり、だけど、そこを乗り越えて来た。ふたりが出会ったときの輝きを忘れずに抱きつづけ、貫き通すような、こころざしの強さ。

じつは、この大人の場面から過去を見つめた映画かもしれないのだ。
「私たちは、こういう時代を生きてきました。そして私たちは、このように出会いました」と思い返している。その回想の部分から映画は始まっているとも考えられる。たっぷりと含めた時間の幅、重さを、少女役のチョン・ドヨンさんは、大人になって、やや気だるい雰囲気で表現していた。
それはちょうど挫けそうな社会へ向けての温かいエールでもあった。
こころざしを強く、貫き通せと。

この映画が幸運だったのは、イ・ビョンホンさんだけでなく、チョン・ドヨンさんも芸達者だったこと。ふたりの演技がうまく噛み合っていて、安心して(話に入って)見ることができた。少女が先生へと気持ちをぶつける、それを先生が少女へと返す。一方の動きが、もう一方の動きへと、うまく絡み合い、相乗効果で、よく表現されていたと思った。

なお、チャン・イーモウ監督の、『初恋のきた道』 に似ているという話をよく聞くのだけれど、しつこいようですが、似ている話は山ほどあります(笑)。『我が心のオルガン』だけでなく、初恋モノはとくに。
初恋モノで、何を表現したいのかによると思う。れいのネタ本にはこう書かれていますヨ。
同じような題材を扱ったチャン・イーモウ監督の『初恋のきた道』が、過疎地で真面目に働く教師を奨励するような“国策”の香りがあったのに対し、本作は単にノスタルジーに浸るだけといった作風になっているのがお国柄といったところか。「映画ファンのための」韓国映画読本―“男目線”のコリアン・ムービー・ガイド(83頁)

「ノスタルジーに浸るだけ」、には異議ありだけど、笑。

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なぜ太宰治は自殺したのか

太宰はなぜ死んでしまったのか。
この問いに、さまざまな人々が答えています。境界性人格障害の疑いアリ、薬の量から言っても死ぬつもりはない自殺ゴッコ、再起をはかった賭けに違いない、死ぬことで自分の作品を完結させた、などなど。猪瀬直樹さんは、『ピカレスク太宰治伝』を書いて、「自殺の謎を解くカギは井伏鱒二との関係」にあると仰っているようです。夏目漱石ほどではないにしても太宰研究者もそうとう多いと思われますが、それだけでなく、読み手がそれぞれに解釈するために、太宰の死の理由は新しい読み手が加わるたびに、量りにかけられためされて、今後も世間の目に耐えてゆくことでしょう。

ところで、太宰治のヒット要因というサイトを見つけました。ダカーポに掲載されたらしいのですが、未確認です。
この「ロングセラー・ブランドの共通項」のなかに、「市場環境への積極的な対応」というのがあります。なぜ死んだのかを問う行為はここにあてはまるようです。直接に問いたい人が多ければ多いほど「彼を研究する人たちがつねに新しい切り口を提示」するというわけです。知りたい人がそれを買って読むと。

しかし、これは逆ですね。
理由を与えているのは「新しい切り口を提示」する側でしょう。死を演出したいと考えているのは太宰ではなく、そう理由づけた側なのです。太宰はひと言も言っていません、死人に口無しとはこのことです。そしてこの事実はどこまでも動かせないものです。
これがいつの間にか逆転して、太宰の死の理由として断言に近い口調に変わってしまいます。「どうせ演出だろう」という思い込みの方が強いのですね。その思い込みの市場に、新しい切り口だと言って、思い込みに応える本を、たとえば猪瀬さんは書くわけです。それは売れるでしょう。思い込みの市場に従っているのだから。
急いで付け加えると、逆転であれ何であれ、太宰の名が出てくる行為はすべて、「市場環境への積極的な対応」の内だろうから、ファンとしてはそう悪い気はしません。忘れ去られて行くよりも、こうして思い出してくれる人がいるだけで有難いことではないかと。太宰も生誕100年です。じつに息の長い作家です。

なぜ太宰は死んだのかと、太宰本人に訊いたところで明快な返答はないでしょう。
細かいことは、いろいろと言えるでしょうが、それこそ井伏さんのこととか生活のこととか。
でも本当の理由は誰にも分からないし、太宰本人にも分からないと思います。
その分からないところに立ち止まって考え続けていたのが太宰という作家で、あらかじめ答えを用意していた作家ではないのです。だから読者としては、太宰を相手に一緒になって「私」を考えることはできると思います。それが正しい(笑)太宰の利用法ではないでしょうか。自殺した結末から逆に辿って、思い込みで太宰をナナメに読むと、そこに現れ出た太宰は誰かの口真似の人形に過ぎず、けっして太宰本人に出会うことはないでしょう。
ちなみに、私はまだ出会えていません。
「私」が分からないように、太宰のことも分からないからです。


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