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『忘れられた日本人』宮本常一(3)

職業としての政治 (岩波文庫)


トチ狂ってる、と言ったのは石原都知事ですが、どうやら選挙が行われるようすです。

7月12日付けの産経新聞に、京都大学教授の佐伯啓思さんが『政党政治の終わり?』と題し、マックス・ウェーバーの、『職業としての政治』を引いていました。政党政治が行き詰るとデマゴーグ(大衆扇動家)が現われ、民主政治を破壊すると。今回の選挙は政権交代が争点となっているので、必然的にデマゴーグ頼みとなり、それによって政党から決定的なもの、「信」や「義」を奪い取ってゆくだろうと。「政党とは、あることをなしとげるための信頼する人々の集まりだとすれば、政党政治を支える精神は、相互の「信」と「義」以外にはないだろうからである。(同引用)」

同じく、産経新聞の7月18日付けでは、法政大学教授の田中優子さんが『先進国の選挙は広告競争』と題して書かれていますが、「現代の選挙制度は本当に民主主義を体現する制度だろうか?(同引用)」、と問い、江戸時代の寄合を引き合いに出しています。「村の行政事項は、それが天領であっても藩であっても寄合で決定された。寄合は全員参加が義務だった。そして徹底的に話し合う。ものごとの決定で理想的なのは、話し合った後に全員が納得して結論に至ることだ。(同引用)」

なぜ寄合が可能かといえば、そこに信や義があったからでしょう。
信や義がなければ、そもそも集まる理由がないし、ましてや徹底的に話し合うなど、そんな疲れること誰もやらないです。
信や義があったからこそ寄合は可能となり、現実に機能していたのでしょう。

現在の選挙制度はどこの真似をしていつから当たり前になったものか。投票率が低いのは今に始まったことではないけれど。はたして、デマゴーグが現われて、信と義を壊すのか、信と義が揺らいでいるからデマゴーグが現われ、かっさらって行くのか。政治家は国民のうつし鏡だとも言うし、もしかすると信や義さえ日本人は(とっくに!?)忘れてしまったのかもしれません。

民俗学の旅 (講談社学術文庫)


この寄合のようすを、『忘れられた日本人』のなかで、詳しく紹介している箇所があります。現代人には、ちよっと考えられない徹底ぶりですが、その前に、ついでに、

フィールドワークの大切さを書いてみたいです。
身なり、口調、表情、場のようすなど、全体として受けることで、否が応でも思想はただされ、全体として記憶することを要求されてゆくでしょう。だから(1)で書いた、その方々の立場で考えるというのは、宮本氏の実感に基づいた提言ではないでしょうか。現場へ出向けば、ほんとうに、そのように、要求されてゆくのだろうと思います。
全体を網羅できない偏った「情報」という逸脱を許すやり方では、書き(話し)手の思想に左右されてしまう場合が多く、うまくすれば誰もがデマゴーグになれます。プチ・デマゴーグとでも言いたい、小規模な扇動家が、うようよと蠢いているのが現在のようすではないでしょうか。もちろんそこにもさまざまな屁理屈が弁護しますが。なんのために? と問いたいです。
それだけ「情報」に扇動されている(デマゴーグ自体が情報というデマゴーグに扇動されている)、漠とした感情だけが根拠となり、むき出しのままに行き来している、とも言えるでしょう。
なので、このネット上の寄合を、新たな寄合の場として考えておられる方々も、幾人か見受けられるのですが、全体を網羅できない(身なり、口調、表情、場のようすなどを、空間を通じて知ることができない)ことは、大きな損失ではないでしょうか。人間が人間以上に進化したらどうなるか分からないですけど。頭で理屈で考えているよりも、現実の進化のペースはゆっくりで、それほど人間は、変化していないと思われます。

宮本常一―「忘れられた日本人」を訪ねて (別冊太陽 日本のこころ 148)


さて、宮本氏の『忘れられた日本人』から抜き出します。寄合について。

宮本氏は、対馬も北端に近い西海岸の、伊奈の村に三日ほど滞在し、そこで古い帳箱のなかに区有文書が入っていることを知ります。ぜひ中を見てみたいと思い、その話を教えてくれた老人に頼み込むと、老人は、自分の一存では決められないから、箱の鍵を持っている区長と、総代(江戸時代には肝煎りと呼ばれていたそうです)立ち会いのもと開けましょうと、二人を呼びに行きました。見せるだけなら見てもいいだろう、ということで、宮本氏はその日、徹夜でうつしとったそうですが、旅の疲れで能率があがらず、うつしが終わらないので、すこし拝借できないかと、お願いしに行きます。

「「この古文書をしばらく拝借ねがいまいか」と老人の家へいってたのむと、老人は息子にきいてみねばという。きけば今日も寄りあいのつづきがおこなわれていて息子はその席へ出ているとのことである。そしてまた人をやってよんで来てくれた。すると息子はそういう問題は寄りあいにかけて皆の意見をきかなければいけないから、借用したい分だけ会場へもっていって皆の意見をきいてくるといって、古文書をもって出かけていった。しかし昼になってもかえって来ない。午後三時をすぎてもかえって来ない。「いったい何の協議をしているのでしょう」ときくと、「いろいろとりきめる事がありまして……」という。その日のうちに三里ほど北の佐護まで行きたいと思っていた私はいささかジリジリして来て、寄りあいの場へいってみることにした。老人もついていってくれる事になった。いってみると会場の中には板間に二十人ほどすわっており、外の樹の下に三人五人とかたまってうずくまったまま話しあっている。雑談をしているように見えたがそうではない。事情をきいてみると、村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。はじめには一同があつまって区長からの話をきくと、それぞれの地域組でいろいろに話しあって区長のところへその結論をもっていく。もし折り合いがつかねばまた自分のグループへもどってはなしあう。用事のある者は家へかえることもある。ただ区長・総代はきき役・まとめ役としてそこにいなければならない。とにかくこうして二日も協議がつづけられている。この人たちにとっては夜もなく昼もない。ゆうべも暁方近くまではなしあっていたそうであるが、眠たくなり、いうことがなくなればかえってもいいのである。ところで私の借りたい古文書についての話しあいも、朝話題に出されたそうであるが、私のいったときまだ結論は出ていなかった。朝から午後三時まで古文書の話をしていたのではない。ほかの話もしていたのであるが、そのうち古文書についての話も何人かによって、会場で話題にのぼった。私はそのときそこにいたのでないから、後から概要だけきいた話は、「九学会連合の対馬の調査に来た先生が、伊奈の事をしらべるためにやって来て、伊奈の古い事を知るには古い証文類が是非とも必要だというのだが、貸してもいいものだろうかどうだろうか」と区長からきり出すと、「いままで貸したことは一度もないし、村の大事な証拠書類だからみんなでよく話しあろう」ということになって、話題は他の協議事項に移った。そのうち昔のことをよく知っている老人が、「昔この村一番の旧家であり身分も高い給人(郷土)の家の主人が死んで、その子のまだ幼いのがあとをついだ。するとその親戚にあたる老人が来て、旧家に伝わる御判物(ごはんもの)を見せてくれといって持っていった。そしてどのように返してくれとたのんでも老人はかえさず、やがて自分の家を村一番の旧家のようにしてしまった」という話をした。それについて、それと関連あるような話がみんなの間にひとわたりせられてそのまま話題は他にうつった。しばらくしてからまた、古文書の話になり、「村の帳箱の中に古い書き付けがはいっているという話はきいていたが、われわれは中味を見たのは今が初めであり、この書き付けがあるのでよいことをしたという話もきかない。そういうものを他人に見せて役に立つものなら見せてはどうだろう」というものがあった。するとまたひとしきり、家にしまってあるものを見る眼のある人に見せたらたいへんよいことがあったといういろいろの世間話がつづいてまた別の話になった。
そういうところへ私はでかけて行った。区長がいままでの経過をかいつまんでひととおりはなしてくれて、なるほどそういう調子なら容易に結論はでないだろう。とにかくみんなが思い思いの事をいってみたあと、会場の中にいた老人の一人が「見ればこの人はわるい人でもなさそうだし、話をきめようではないか」とかなり大きい声でいうと外ではなしていた人たちも窓のところへ寄って来て、みんな私の顔を見た。私が古文書の中にかかれていることについて説明し、昔はクジラがとれると若い女たちが美しい着物を着、お化粧して見にいくので、そういうことをしてはいけないと、とめた書きつけがあるなどとはなすと、またそれについて、クジラをとったころの話がしばらくつづいた。いかにものんびりしているように見えるが、それでいて話は次第に展開して来る。一時間あまりもはなしあっていると、私を案内してくれた老人が「どうであろう、せっかくだから貸してあげては……」と一同にはかった。「あんたが、そういわれるなら、もう誰も異存はなかろう」と一人が答え、区長が「それでは私が責任をおいますから」といい、私がその場で借用証をかくと、区長はそれをよみあげて「これでようございますか」といった。「はァそれで結構でございます」と座の中から声があがると、区長は区長のまえの板敷の上に朝からおかれたままになっている古文書を手にとって私に渡してくれた。私はそれをうけとってお礼をいって外へ出たが、案内の老人はそのままあとにのこった。協議はそれからいつまでつづいたことであろう。(12p~)」

日本文化の形成 (講談社学術文庫)


なんとも気の長い話ですが、
宮本氏はこの情景が「眼の底にしみついた(16p)」と書いています。

寄合方式は、かなり前から行われていて、伊奈の村だけではないそうです。東岸の千尋藻(ちろも)という所でも同様に、古文書を見せてくださいとお願いしましたら、千尋藻湾内四ヵ浦の総代の皆さまに集まってもらうことになり(この総代会は四百年以上も前から続いているそうです)、きちんと羽織を着て扇子をもって、長い道のりを舟でやって来たそうです。

「日本中の村がこのようであったとはいわぬ。がすくなくも京都、大阪から西の村々には、こうした村寄りあいが古くからおこなわれて来ており、そういう会合では郷土も百姓も区別はなかったようである。領主―藩士―百姓という系列の中へおかれると、百姓の身分は低いものになるが、村落共同体の一員ということになると発言は互角であったようである。(19p~)」

この辺の事情は複雑に込み入っているようです。
郷土と百姓は通婚できず、盆踊りに歌舞伎芝居の一齣のできるのも郷土に限られていたけれど、郷土が百姓の家の小作をしている例もすくなくなかったそうです。
こういった複雑な事情なので、理詰めで話し合いをするのではなく、自分が体験したことなどに事よせて話すのが、よかったのではないかと宮本氏は分析していました。
ちなみに、どんなにむずかしい話し合いでも、この調子で三日もやれば、かたがついたそうです。

「このようにすべての人が体験や見聞を語り、発言する機会を持つということはたしかに村里生活を秩序あらしめ結束をかたくするために役立ったが、同時に村の前進にはいくつかの障碍(しょうがい)を与えていた。(21p)」

その障碍のなかの、幾つかを塗りつぶすかたちで、現在見られるような合理的なやり方が輸入され、採られてきたと思われます。
と同時に障碍の幾つかは一掃され、引き換えに、失ったものも、あるでしょう。

「信」や「義」とは具体的に何なのか。みなさんそれぞれにお考えがあるでしょうから書きませんけど。少なくとも私利私欲だとかデマゴーグだとか、そういうことではないでしょう。
先の千尋藻湾内四ヵ浦の総代の皆さまに、宮本氏は遠いところ出向いてくださって申し訳なく、少し、包んだそうですが、絶対に受け取らなかったそうです。「これは役目ですから」、と言って。
私はここに、なにか忘れたものを、見る思いです。
「信」や「義」とは、こういう心持のことではないでしょうか。愛国心とか、村のためとか、そういう大きな言葉ではなくて、それが自分に与えられた、あたりまえの役目として、守るべきものを守っているように見えました。この「信」や「義」があったからこそ寄合は可能となり、何百年も継続して、協力しあって来れたのでしょう。

昔に戻ってやり直すことはできないし、いまとなっては効率、合理化をひた走る社会を逆向きに生きることも、かえって周囲に迷惑がかかり、ほぼ不可能です。忘れられた日本人の、この寄合に見られる精神を、どう活かし、残していけば、いいものか・・・。

今回の選挙に疾走する、「信」も「義」もなさそうな政治家の皆さんを横目で見ながら。いや政治家は国民のうつし鏡です。仕方ないから、小石を蹴って、投票所に行きましょう。今はこんなことしか、言えないけれど・・・。

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『忘れられた日本人』宮本常一(2)

目次

  • 対馬にて

  • 村の寄りあい

  • 名倉談義

  • 子供をさがす

  • 女の世間

  • 土佐源氏

  • 土佐寺川夜話

  • 梶田富五郎翁

  • 私の祖父

  • 世間師(一)

  • 世間師(二)

  • 文字をもつ伝承者(一)

  • 文字をもつ伝承者(二)



大きく分けて、3タイプに分類できるかと。
学者らしい客観的な文章、まるで小説みたいな独白調、この2つを合わせたような内容で、形式にこだわらずに書かれたものと。
最初に載せた雑誌がさまざまで、それを1つにまとめたものだから書き方がさまざまだ、というだけの理由ではなく、あとがきを読むと、途中で何度か新たな意図が加わってしまい、幾度も手を加えたようすです。でもそれがなくても宮本氏は文体を統一しようなどとは考えないでしょう。象牙の塔的には統一した方が「らしく」てよいのでしょうけれど。
きさくな方ですね。飾らない、そのままの方ではないかと、書き方を見て、思いました。

それで、さっそくどこかを抜き出したいのですが。

まるで小説みたいな独白調では、たとえば「土佐源氏」です。
橋の下の乞食小屋で30年近く暮らしている、盲目の老人の語りを基調とし、宮本氏はこれに対して講釈することはなく、少しだけ状況説明を入れている、ていどでした。

この老人は、どうやってこの世に生を受けたかというと・・・、

「わたしはてて(父)なし子じゃった。母者(ははじゃ)が夜這いに来る男の種をみごもってできたのがわしで、流してしまおうと思うて、川へはいって腰をひやしてもながれん。石垣に腹をぶちあててもおりん。木の上からとびおりても出ん。あきらめてしもうていたら、月足らずで生れた。生れりゃころすのはかわいそうじゃと爺と婆が隠居へ引きとって育ててくれた。母者はそれから嫁にいったが、嫁入先で夜、蚕に桑をやっていて、ランプをかねって、油が身体中へふりかかって、それに火がついて、大やけどをして、むごい死に方をしなさった。じゃから、わしは父御(ててご)の顔も、母者の顔もおぼえてはおらん。気のついたときは子守りと一しょに遊んでおった。わしに子守りがついていたんじゃない、よその子の守りをしているおなごの子のあとをついてあそびあるいていた。(134p)」

生まれてから橋の下までの、長い年月を、老人は告白しています。ほんとはもっと長い話だそうですが。さいごは、この文章で終わっています。

「しかしのう、やっぱり何でも人なみな事はしておくもんじゃ。人なみな事をしておけば乞食はせえですんだ。そろそろ婆さんが戻って来る頃じゃで、女の話はやめようの。
婆さんはなァ、晩めしがすむと、百姓家へあまりものをもらいに行くのじゃ。雨が降っても風がふいても、それが仕事じゃ、わしはただ、ここにこうしてすわったまま。あるくといえば川原まで便所におりるか、水あびに行く位のことじゃ……。ああ、目の見えぬ三十年は長うもあり、みじこうもあった。かまうた女のことを思い出してのう。どの女もみなやさしいええ女じゃった。(158p)」

壮絶な人生を読むだけではないです。映画ドラマの感想文風に書けば、人物が立体的に描かれています。老人は悲しみに溺れてはいないから。人はこんなふうにして宿命を背負ってゆくのでしょう。

スピリチュアル系が強い現在では、トラウマかそれに似た言葉で言い表わされ、その言葉に巻き込まれて行くかのようにして端的に解体され、原因と結果を直線で結びつけられて、いとも簡単に結論が導き出されてしまいます。新興宗教が儲かる手口です。少年による凶悪犯罪のTVコメンテーターの身軽さです。知識らしい言葉で規定されることで、人はより単純な作りに作り変えられてゆくようです。
精神科医の小此木啓吾氏(Wiki) が言うように、生半可に知識だけ入れて操作すると、とても危険だということです。どの本に書かれてあったのか忘れてしまったけれど。

老人の話は壮絶だけど、豊かだなぁ、と思いました。
乞食よりも貧しい風景と、重ね合わせながら。

あと2ヵ所ほど抜き出します。つづく。

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