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連塾 方法日本II『侘び・数寄・余白~アートにひそむ負の想像力』松岡正剛(3)

日本力


本全体の内容

ご紹介したい箇所が多すぎて面白い話がてんこ盛りで、あれもこれも皆に知らせたいと目移りしてしまい、どこから書いてよいものやらと、迷います。まずは、この辺から。抜き出しが長くなりますけど。ワタシ的に要点は2つです。
1)日本人は日本人でなくなりつつある? 
2)ほんとうには解らない、一神教の国。加えてそれ以外の他国も。

「欧米の学問や文化に強く魅かれていた(p18)」、と松岡さんはおっしゃっています。
マルセル・プルースト、ジュール・ラフォルグ、メルロ=ポンティ、チャールズ・パース、サルトル、レビィ=ストロース、ヴァルター・ベンヤミン、などなど、かっこよく見えたそうです。

いくらそこに魅かれても、それらの思想はヨーロッパの言語や風俗、歴史と習慣となかなか切り離せないものであるということが見えてきました。というのは、そういうかっこいいものを日本にあてはめてみると、必ずしもうまくいかなくなることが少なくないからです。
そもそも、一口に欧米といっても、そこには多様な民族と歴史と文化があって、多様な言語と習慣と理念があるわけです。また、それらの何でもが正しいなんてことはないし、それらを輸入しっぱなしで使えるかどうかというと、けっこうあやしいのはあたりまえです。何もかもを日本に適用できるわけではない。とくに日本は一神教の国ではなく多神教ですから、多神多仏の国ですから、ジャッジメントについては、欧米とはそもそも時間の単位が違うわけですね。どういうふうに違うのか。

大きな見方をしてみると、一言でいえば、一神教というのは砂漠で育った宗教です。砂漠では、自分の行き先や方向を的確に判断する必要があります。もし判断をまちがえれば、オアシスにたどりつけなくて死ぬ。右なら生、左なら死、そういう二者択一的なところです。
そういうところでは、神は一人でないと困るわけです。すなわち、ジャッジは一つでなければ困る。いろいろ右や左や真ん中があっては迷うだけですね。それが砂漠型の宗教、すなわちモーセの宗教、ユダヤ・キリスト教、あるいはイスラームというものです。
一方、雨季の多いガンジスやインダスや黄河に育ったヒンドゥー教や仏教やタオイズムは、森林型の宗教です。多神多仏です。森林の中では見通しがきかないうえに、雨季も乾季もあり、たくさんの猛獣や虫や植物がはびこっている。そのようななかで身を守って生きていくためには、一人の知恵や意見では足りません。樹木について詳しい人、キノコについて詳しい人、ヘビについて詳しい人、あるいは雲や風雨に詳しい人たちが、それぞれに意見を出しあって方針を決めていく必要がある。つまり合議によって決断をしていくほうがいい。
一神教的な世界から見ると「何をいつまでも談合してるんだ」ということになるんですが(笑)、そこにはタイムラグがあるわけです。
私はいつからか、日本を考えるときには一神教的な考えかたからだけで見ていてはだめではないか、森林の文化が育んだ多神多仏型のメソッドをなんとかもう一度取り出して形にすべきではないかと思い始めたのです。
このメソッドは何かというと、さまざまな知を“組み合わせる”ということです。中核に据えるべき思想がドーンとあるのではなく、また、自分が属している世界の全体は各部分の正確な総和で成り立っているのではなく、最初から自在な組み合わせのヴァラエティやダイバーシティ(多様性)によって知識や知恵を育てていったのであり、多くの民族感情や多くの生活習慣も状況をとりこんで変化しつづけるものだという見方です。
むろん、このような考えかたは森林型だけでは成立しません。そこにはときどき二者択一的なダイコトミー(二分法)も必要です。けれども、その二分法の頂点には唯一絶対なものはなくていいんです。
こういうようなことに気がつきはじめて、やっと私なりの「日本」をハンドリングするメソッドに近づけるようになっていったんです。(p19~)



1)日本人は日本人でなくなりつつある?
思い出すのは、以前ご紹介した「寄合」の話。
まさに森林型です。忘れられた日本人は、日本人として生きていました。

なぜ寄合が可能かといえば、そこに信や義があったからでしょう。
信や義がなければ、そもそも集まる理由がないし、ましてや徹底的に話し合うなど、そんな疲れること誰もやらないです。
信や義があったからこそ寄合は可能となり、現実に機能していたのでしょう。
『忘れられた日本人』宮本常一(3)


ヘンに個人主義で共同体は不在。熾火のように仄光る信や義への眼差し。NHK大河ドラマが支持されるのは、そういう眼差しをかき集めたからではないかと。
反動で、「日本人」となろうとする極端な動きも見受けられるようになってきました。暴力的な言動で周囲を巻き込みながら「過去」へと邁進するかのようです。その一方では基軸という方法もなく、めくら滅法に批判する動きもあります。どの論調にも加担しない、「私」か「私に似ているもの」にだけ微笑むというような防衛の攻防戦です。そうかと思うとTVCMのような、あまりに明るい、明るすぎて「日本人」を通り越してしまい、無国籍の前向き(ポジティブ)を支持する流れもあります。商売人が「いらっしゃいませ」と言う、あの笑顔に画一化され、塗つぶされてしまいそうです。

「どう生きるか」という問いは、「私は誰か」という問いでもあり、「誰か」は「どこかに根差している」。その括りがたとえば私の場合は「日本人」です。これ大きな括りとは限らないですよ、掘り下げて行けば小さな括りでもある。分離できない、区切れない、悩ましいほど渾然一体となった大小の括りです。国の括りをはずして「誰か」は存在し得ないし、括りのない「誰か」はまるで存在しないに等しいものになる。日本人にかこまれ日本人として生まれ育ち平穏に生きていると気づかないことだけど、国としての括りが曖昧で、「私は誰か」と生涯問いつづける穴ぼこに、ことあるごとに落とし込まれてしまう人々が、この世界には大勢いるようです。
人の、内側と外側。人を作るのは、その両方。忘れられた日本人ならぬ、忘れてしまった日本人は、日本という外側を忘れてしまったがために、日本人という内側をも忘れてしまい、どこの誰でもない個人主義におちいっているようです。

松岡さんの本に戻って、
砂漠型、森林型の説明を読むと、日本は砂漠型ではないかと思われます。まるで一神教の国で、正確には一神教の国になろうとしている国ではないかと。「何をいつまでも談合してるんだ」と、よく耳にしますね。政治家を叩くときなど、とくに。「ジャッジは一つでなければ困る」、寄る辺となる「たった1つ」を無意識にも求めているかのよう。怪しげな宗教(とその周辺)に吸い込まれていく人々は、今後も増加傾向でしょう。「右や左や真ん中があっては迷うだけですね」、多様性は排除される方向です。右や左や真ん中があっては困るのです。子どもや大人の陰湿ないじめもけっきょくは多様性を認められない、暗に社会が了解した現代の延長線上です。

暴走しつつあるこの列車から、降りられないところまで来てしまったのかもしれません。二者択一的に整然としていないと、もはや日本は機能しないと思われます。
それどころか、こういう話は通じない憂き目にあいます。それだけ常識になってしまっている。
じゃどうすりゃいいのよ個人の非力でと。日本という構造が、日本のそれでなくなってしまうなら、置いてきぼりをくらった個人も同様に、日本人をやめて別のナニ人にならざるを得ないわけです。どこの誰でもない個人主義におちいっているのにはそれなりの理由があって、森林型であるのに砂漠型となるように国を造り替えられてしまったら、人の外側が造り替えられてしまうことになって、とうぜん内側も替えられてしまいます。先に書いたように渾然一体となっているから。
ストレス社会とよく言うけれど、その根本は何だろう? 日本人が日本人のままでいられない、強制的に皮膚の色を塗り替えられていくような、日本という構造自体の締めつけであるかもしれないです。

2)ほんとうには解らない、一神教の国。加えてそれ以外の他国も。
砂漠型となるように(そちらを志向して)国を造り替えたはずが、どこの誰でもない個人主義におちいってしまうのは、一神教の国をほんとうには理解できないからだと思います。外側の見た目は似せて造っても、脈々と継いだ内側の血が、なりきれない。背負った歴史ごと感情ごと丸写しでもしないかぎり。
日本を忘れてしまうことで負うリスクはそうとうなものです。第一、丸写しなど不可能だから、一神教の国にすらなれない。どこの誰でもない人々がストレスを抱えていくばかりです。
そのまま使えないことが最大の理由です。なりきれない、しかも、忘れてしまった。そのまま使えないのなら、使えるように変換しなければならないのだけれど、日本を忘れてしまったら変換のしようもないわけです。つぎはぎだらけの外科手術みたいなもので、良いのか悪いのかどうなのか、方法もなく、いちいち迷いながら、どこの誰でもない人々の、どこに行くのか知れない論争に疲弊しながら、そのつど水漏れは簡易的にふさがれていくだけです。日本を思い出す必要性を強く感じます。
昔はよかったね、レベルでは、郷愁に終始します。そこから方法を取り出して今現在に適用できるように持っていく。この本 のなかで松岡さんがやっていることは、ようするに、そういうことです。

ついでに。
一神教の国もそうだけど、それ以外の国についても、すらすらすらと書いてしまう方々が、とても多く、いつもフシギに思っています。書物なり何なりにあたってそこから得た知識や情報、ニュース、口コミ、評判、評価、すらすらすらと、なんの抵抗もなく。ほんとうには解らないと何度も書きましたけど。「?」がどこかに含まれていないと。
国を跨げば流れる血も別物となり、抱えてきた歴史などが違うわけですよ。かつん、かつん、とぶつかる、でしょう。理解できないのは当たり前で、日本の常識で云々しても。それこそ、そのまま使えないわけだし。
すらすらすらと書けてしまうのは、じつは国を跨いでなどいなくて、ずっと日本に居続けていて、日本の土地の端をつまんで、どこの国でもいいですけど、その国までその端を、びろ~んと伸ばしただけではないかと思ったりするのですが。誤読、とはいえ、意味の違う誤読です。けれど、あまりに多く、こちらが非常識な言い分となっています。

日本力
連塾 方法日本II 侘び・数寄・余白 アートにひそむ負の想像力 (連塾方法日本 2)
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連塾 方法日本II『侘び・数寄・余白~アートにひそむ負の想像力』松岡正剛(2)

神仏たちの秘密―日本の面影の源流を解く (連塾方法日本 1)


神仏たちの秘密―日本の面影の源流を解く (連塾方法日本 1)の次が、連塾 方法日本II 侘び・数寄・余白 アートにひそむ負の想像力 (連塾方法日本 2)です。

タイトルどおり、こちらが芸術寄りの内容となっています。それで「2」だけをご紹介。続きものなので第四講から始まっています。目次と、内容を簡潔に。先に書き出しておきます。

第四講 「文」は記憶する
  目の言葉・耳の文字・舞の時空・音の記譜
  ――インタースコアとインタラクティブシステムの歴史
並列する文化/インタースコアとしての日本/森林文化のメソッド/編集とは情報を「関係」させること/スコアの奥にあるコードとモード/型×デザイン=多様性/デザインはルールを生み出す/プロフィールが「文」を刻む/日本のすべてを「櫛」にする/文化の距離感「プロクセミックス」/スコアとは何か/邦楽には五線譜がない/「限界」が情報を創発する/ちょっと変、が「座」の誕生/身体と歴史を刻む「文の世界」/世界には「名前」がついているか/「肉声の文字」を宿すまで/書物は声に出して読みたい/意識と無意識のあいだに“メディア”が生じる/戦争する言語/日本語を越境させるということ/秘められた書物の力/文字の記憶、書物の身体/本棚が動き出す空間/「垣根」を書物として読み込む/日本舞踊は引き算からはじまる/「昔の雨」が降ってくる


<内容>
日本は見失っているのではないか? と漠とした疑問を抱く人は少なくないでしょう。
提案が出されるたびに、事象が起こるたび、良いのか悪いのかどうなのか、どういうことなのか、それを決めるにしても、どこを見て判断すればいいのか、政治、ビジネス、日常生活あらゆる場において。そういう見失い方です。
もう一度掘り起こして炙り出すための方法がインタースコアです。これ松岡さんの造語で、インター(相互)するスコア(記譜)のことだそうです。
「インターする」とは、異なっているように見えてもどこかでつながっているという考え方で、歴史文化のテクストはバラバラではないと、1970年代フランスの思想家たち(ロラン・バルトやジュリア・クリステヴァ他)が提唱したインターテクスチュアリティ(相互テキスト関連性)、そこから発展させて、私たちの感覚や感性も「スコア」に置き直してみれば、どこかでつながっているのではないか、という視点で、
第四講では、もともと日本はどういう「スコア」だったのかを振り返り、現在のそれと照らし合わせ、「スコア」の奥に潜むものを探りつつ、判断する起点を炙り出そうとしています。
「主題より大切なものが方法で、方法を主題に従属させてはいけない、方法によって主題を侵していくくらいでなければいけない(p18)」

第五講 日本美術の秘密
  白紙も模様のうちなれば心にてふさぐべし
  ――枕草子・枯山水・宣長・幕末三舟・イサムノグチ・三宅一生
梅窓院から日本を考える/「連塾」とは編集の場である/「好み」とは何か―椅子は奏でる/「時間」のプログラム―「次第段取一切」/プログラムは「風来」し、「行方」をくらます/「始まり」から「終わり」への母型/おもかげの国の文化とは/日本の中心には「空」がある/「ウツとウツツ」の理論/神社には「何もない」/負としてのヒルコ、正としてのエビス/流れて現れる神々/余白の美意識/日本水墨山水の頂点、雪舟/引き算の美とは/去来する等伯/「中国離れ」と江戸の文化/余白は成長する/枯山水―「負の庭」/想像の負―「心にてふさぐべし」/官僚としての岡倉天心/世界美術に抗する『悲母観音』/東京美術学校、開校―アジアとしての日本/都落ちと日本美術院の創設/『茶の本』のエッセンス/「二つの塔のあいだ」で“日本画”が生まれた/カラス族の方法―川久保玲/“二つの国”の血―イサムノグチ/外から内を見る/内から外を見る/完璧でないのが重要/「おもかげ」を装う服―三宅一生


<内容>
第四講の<内容>に、「日本は見失っているのではないか?」と書きましたけど、どれくらい見失っているのかといえば、かなり見失っています。物や言葉として遺っていても日本独特の概念を正確に把握できていないのです。たとえばこの本のなかに何度も出てくる「おもかげ」ってなんですか。辞書をひけば意味は出てきます。いまの日本人にはそれきりの意味でしかないです。かつての日本人はここに豊かに意味を(想いを)含ませたものでしょう。
見失っているというよりも、日本は日本でなくなりつつあると言ったほうが近いかもしれません。捨てることが発展することだと勘違いしたのでしょうか。いや捨ててしまうこと自体(そういう選択の仕方が)すでに見失っている、忘れてしまったのでしょう。グローバルな場を想定してみても、日本が日本を捨ててしまったら勝ち目はないかもです。
この日本独特の捉え方を説明しているのが第五講です。
日本といえば見えてくる、いくつかのキーワードがあります。ハリウッドが映画にしたような「日本らしさ」。そういうことではなくて、もっと根本から掘り下げています。白紙も模様のうちなれば、日本の中心には「空(くう)」がある、「ウツとウツツ」の理論などなど。読んで面白く感じられるのはそれだけ遠い風景を展開して見せてくれているから。ああほんとうに遠いです、汗。

第六講 「負」をめぐる文化
  正号負号は極と極。いづれ劣らぬ肯定だ
  ――引き算と寂びと侘び(夢窓・心敬から天心・九鬼へ)
「場」と「関係の発見」人は自然か人工か/日本の健康状態/日本になったもの/伝統と革新はなぜ見えなくなったか/近現代国家の矛盾/何を世界に誇れるか/伝統は前衛的に革新する/高揚する文化/かぶきものは出遊する/太郎の悪寒、清張の闇/「みかけ」と「なかみ」/日本では「真実」が機能しない/「顕」の歴史、「冥」の歴史―サダメナキ道理/「道理」が法になる/正負のリバースモード/「負」の刻印/座頭市の哲学/「と金」の文化論/「侘び」を撮る/「反映」する美の空間/侘びに秘められたる、恋/現実と実感の「ちょっと」/日本文化の成り立ち/編集的マスキング/江戸の想像力/樋口一葉の「いやだ!」とは/「厭う恋」を求めて/隠れと蘇りのメソッド/衰微の美学/負をどう語るか/負の拠点/境の国の『夜明け前』/境界に潜む悲しみ―金子光晴・野口雨情/異質との出会い―九鬼周造/司馬文学の方法論/「真水の国」を探って/多様と一途は共存する


<内容>
「日本が何をめざそうとしていて、何に迷っているかということ、そのことに日本人自身が目を覆われているというか、暗(くら)まされているというか、足を止めているように思うのですが、そうしたときに、どこから突破していけばいいのかということを考えたいのです。(略)日本にとっていったい「伝統と革新とは何なのか」ということでもあります。また、「保守と前衛とは何か」ということです。われわれは何をもって伝統とみなせばいいんでしょうか。能や歌舞伎が伝統で、ロックやヒップホップが前衛ですか。無形文化財が伝統で、IT技術が革新的なんですか。どうも、そのように見るのではまったく足りないのではないかと思います。いや、そういう見方はひょっとすると間違いではないかと思います。(p296~)」


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