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クラウドソーシングは新しい働き方なのか?

ざっくり書きます。

クラウドソーシングとは何か、メリット・デメリットは?
Webクリエイターボックス「クラウドソーシングのメリット・デメリット」

ネット上では、クラウドソーシングを新しい働き方として歓迎する一方、報酬が安いため敬遠する向きもあり、クラウドソーシングが契機となって、これまでのフリーランスの相場までもが巻き込まれるかたちで下降線を辿るのではないかという、自身の生活基盤を脅かしかねない不安を、隠せない発言も多々ありました。

古市憲寿さん(社会学者)は、クラウドソーシングとか言ってフタを開けてみれば、フリーターじゃないのか? とラジオで言っていました。
正規雇用されておらず、生活が不安定、さらに低賃金であり、必要な際に都合よく使われ、あとは用済みさようならという、要素だけ取り出せば、まさにフリーターです。正規雇用と対峙させるにしては、現在のクラウドソーシングの有り様は貧弱であり、その嘆きに似た意味合いでの上記の発言であることを、付け加えておきます。

ところで、クラウドソーシングという働き方は、新しいのでしょうか、古いのでしょうか。
ネット上では新しい働き方の一本槍なんですが、それは本当でしょうか。

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菅山 真次|「就社」社会の誕生 -ホワイトカラーからブルーカラーへ-
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学卒就職や終身雇用など、私たちが慣れ親しんできたいわゆる「日本的」雇用慣行・制度がすでに過去のものとなりつつあるかのようにみえますが、そもそもこれらの慣行・制度はいつ、どのようにして、そしてなぜ形づくられたきたのでしょうか?(中略)「サラリーマンはどのようにして生まれたのか」・・・「就社」社会・日本を特徴づけるユニークな慣行・制度を生み出す種子は、日本の産業化過程それ自体の裡にすでに胚胎していました。すなわち、産業化のスパートとともに発芽・成長し (日清・日露戦争前後期)、やがて大きなつぼみをつけ (戦間期)、苛烈な夏の暑さのなかで開花 (戦時・占領期)、そして1950年代以降の高度成長期が、最後の結実の秋であったのです。・・・
「……だが、過去はただ過ぎ去ることはない。それは、伝統となって、意図するとせざるとにかかわらず、新しい『制度』、そして社会のあり方を規定し続けていくだろう。……」
名古屋大学出版界/「サラリーマン」はどのようにして生まれたのか”   —— 『「就社」社会の誕生』



たかだか100年、それくらいのスパンでしかないのです。名もなき人々の雇用形態として。
つまり正規雇用こそ新しい働き方なのです。

ではそれ以前はどうだったのか。
このクラウドソーシングに絡めてヒントとなりそうなのが、内山節さん(哲学者)の著書、『自然と人間の哲学』に書かれています。

“稼ぎに行ってくる” 村人がそう言うとき、それは賃労働に出かける、あるいはお金のために労働をすることを意味していた。日本の山村は農村よりはるか昔から商品経済の社会になっている。食料を十分に自給することができず、自給自足的な生活を不可能にしてきた山村の社会では、昔から交換が生活のなかに浸透していたのである。その結果貨幣を求めて賃労働に従事することは、農村より早い段階から村人の生活の一形態になっていた。

しかし「稼ぎ」は決して人間的な仕事を意味していなかった。それは村人にとってあくまでもお金のためにする仕事であり、もししないですむのならその方がいい仕事なのである。

ところが村人に「仕事」と表現されているものはそうではない。それは人間的な営みである。そしてその多くは直接自然と関係している。山の木を育てる仕事、山の作業道を修理する仕事、畑の作物を育てる仕事、自分の手で家や橋を修理する仕事、そして寄合いに行ったり祭りの準備に行く仕事、即ち山村に暮す以上おこなわなければ自然や村を暮しが崩れてしまうような諸々の行為を、村人は「仕事」と表現していた。

もちろんこの「仕事」は収入に寄与する場合もしない場合もある。理想的にいえば、村人は「仕事」をして、その結果生活もうまくいくことを望んでいる。しかし現実にはそうはいかない、賃労働に出て貨幣を得なければ山村の生活はなりたたないのである。そこから生まれたたくみな使い分け、それが「稼ぎ」と「仕事」であった。(略)
だから村の子供たちが都市に出て、すでに何十年も会社勤めをしているときでも、村人は “子供は東京に稼ぎに出ている” と表現した。サラリーマンになることは村人にはどうしても「仕事」とは映らなかったのである。同じように、たとえば山の木の下枝を伐りに行くときでも、そこに自分の主体性が発揮できるとき、労働を自分の手で工夫できるときには村人は「仕事」に行くと表現した。誰に命令されるわけでもなく、労働の結果がいつの日かお金になるかどうかもわからない。しかし下枝を伐り、木を育て、自然と人間の交流を培っていく行為がそこにはある。

ところが全く同じ労働をするときでも、たとえば営林署の下請け仕事のようなかたちで下枝を伐りに行くときには、それは村人にとっては「仕事」ではなく「稼ぎ」だった。なぜならそれは営林署の計画にしたがって作業をするだけであって、労働の主体性が村人の手にはなくなってしまっているからである。ここでは村人は木を育てているのではなく、お金と引き換えに作業をしているだけなのである。
内山 節|自然と人間の哲学(p12〜)


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雇用されていないことが、村人にとっての「仕事」なのでした。
生活が不安定ゆえに「稼ぎ」に出ますが、主体は「仕事」であり、「稼ぎ」ではないのです。
クラウドソーシングと似ていますね。

「稼ぎ」を請け負うだけでなく、自分から主体的に「仕事」を発信します。
たとえば何かのプロジェクトの一部をタスクというかたちで請け負う場合、それは「稼ぎ」になりますが、同じプロジェクト内であっても、たとえその一部であったとしても、主体的に行われる場合は「仕事」になります。これは言葉のあやでもなんでもなくて、クラウドソーシングに求める「仕事」とはそういうものではないですか? できれば主体的に労働できる「仕事」を求めているのではないでしょうか。

時をさかのぼれば、正規雇用の直近は、この村人のような暮らし方であり、
さらにさかのぼれば、「稼ぎ」は存在せず、物々交換です。

昨日の新聞に、生きたアオリイカ10匹に対して本マグロ200グラムと交換するという記事が載っていました。
高齢化が進むマグロ漁師が、先に餌用のアオリイカを捕らなければいけないそうで、生きたアオリイカを持って来てもらえれば、手間が省けて体力も温存できると。そこで漁師が必要ぶんのイカの数と、協力してくれるイカ釣り人と(イカの量/提供できる時間)、データベースを構築し、スマートフォンなどで情報を共有するそうです。物々交換、やっていますね。探せばあちこちで物々交換、いまもどこかでやっているかもしれません。

第三の波 』でセンセーショナルを巻き起こしたアルビン・トフラー(未来学者)は、『富の未来 』で、「富」の意味が変わってくると言っています。これは正確な言い方ではないけれども。そこでは「貨幣」の意味も同時に変化しています。とうぜん「労働」の在り方も。少なくとも、ここ百数十年のそれとはまるきり変わっているのです。遥か未来の夢物語でしょうか。フシギなことにトフラーも、まるで回帰し、それを未来だと言っているようです。
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