スポンサード リンク

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スポンサード リンク

上でも下でもない踊り場で

世の中スマホ小説化している、らしい。スマホ小説で検索したら、『E★エブリスタ』がいちばん上でした。「自社表現基準綱領」欄を開くと、このように書かれていました。

・・・青少年の利用に際して健全で安心・安全な環境作りに十分配慮し、 提供するコンテンツが青少年の健全な育成を阻害することが無いように努めるべく、当社が当サイト上で行う表現に関し、 「性」、「暴力」、「自殺」、「犯罪行為」、「その他青少年の健全な育成を阻害しうるもの」の5つの分野(以下「当該分野」という。)」については、 画像・描写・音声その他の表現方法により、 当サイトを利用する青少年の当該分野に対する刺激や興味を直接的かつ著しく喚起・助長しないように努めることとしています。(URL


これら全部、文学の得意技じゃないですか。映画もそう。テレビドラマでさえ泥沼化すれば、きれいごとじゃ済まされません。なぜこのようなことになるのかと言えば、光は闇とともにあるからです。闇なき光はコンビニで幾らで売っている光です。効率よく大量生産するためにはシステムを構築し、均一化させる必要があるでしょう。だから当然、コンビニの棚に置かれた光は似たようなものになっていきます。もう知っているものを繰り返し「知る」という行為を延々と続けているわけです。「人々は見る覚悟があるものだけしか見ることができない。」とエマソンが言っているように、すでに知っていることだけを知ろうとしているかのようです。が、闇も書かれて(表現されて)いると言うかもしれません。すでに知っている闇です。手探りで歩こうにも歩けるもンじゃないです。名付けようもない恐怖が襲ってきます。把握できないものこそ闇でしょう。直視できないからこそ闇でしょう。この闇の背後から立ち上がってくる光が、光です。コンビニで売っている光とはえらい違い。そういう意味で光は闇とともにあるのです。グロテスクな変質者ぶりを開陳しろということではないし、下劣な人間性を威張って表現しろ、と言いたいわけでもないです。ただ、掘り下げれば闇です。目玉をえぐり獲られるぞ。神がいる。見つめてはいけない領域まで踏み込んでしまったのでしょうか。そこまで来て、闇。そうして神。光は神が動いたときの、影なのか。いまだ肉眼で見たことはないけれども、これまであたってきた、過去の作品の数々が、そう教えてくれます。『E★エブリスタ』で語り過ぎですか。いや、そこじゃなくて。世の中スマホ小説化している、らしい。

♦ ♦ ♦

この連鎖するエピソードの中で、一つのテーマが中心的役割を演じている。眼、眼差し、見ることと見られることの相互性のテーマである。(略)
ーーペルセウスは、怪物の首を斬るために、そしてそれから、その首を振りまわして、敵どもを石に変えてしまうために、慎重に反対側の方へ眼をそらすのであるーー
今問題にしている怪物的なものは、人がそれを見るためには、神への直接的な対決として正面からしか近づけず、自分が失われる危険を承知のうえで、その視線の魔力の領域の中に入っていかねばならないという特徴を持っている。ゴルゴンを見るということは、その眼の中を見つめるということであり、視線を交わすことによって自分自身であることをやめ、生きることをやめて、ゴルゴンと同じように死の神となることなのである。ゴルゴをじろじろと見つめることは、その眼の中で視力を失い、自らが石に変わり、盲目になり、暗黒の中に入ることなのである。
正面と正面との対決において、人間は神とは対照的な位置に身を置く。人間はつねにその軸の中で自らを維持する。この相互性は、二重性ーー対面する人間と神ーーと同時に、不可分性、さらには同一性をも、それとなく示すのである。視線で射すくめるということは、人間が神からその視線を離したり、その顔をそらしたりもはやできなくなること、その眼が、自分が神を見つめるのと同じように自分を見つめている神の眼の中に失われてしまうこと、そして彼自身がこの神の支配する世界の中に投げ込まれてしまうことを意味する。
眼の中の死―古代ギリシアにおける他者の像 (叢書・ウニベルシタス) pp.102-107(続く)

♦ ♦ ♦

どちらか(どれか)に決めてしまうと気がラクですね。対象との距離や位置が関係性を決めているので、その距離や位置が対象とともに「存在する」ということだから、どちらか(どれか)に決めてしまうことで気がラクになるのは、単純に観測法の問題なのです。そこをあえて上でもなく下でもない踊り場に据えて煮え切らない苦行に(?)さらされ、灼けたザラ紙になって惚けているのはいったいどういうことなんでしょうか。目標とか努力とか、まったくもってその通りなのですが、あの映画のセリフのように「豹が斑点を変えられるか?」、ですよ。運命論者ではないけれど、豹が斑点を変えられないこともまた事実で、そうなると踊り場で惚けていることにもなにやら意味らしいものが見えてくるようですが、しかしまた同時に、シカツメらしく語るほどのものでもないのです。ただ「そうである」という話なんだなぁ。
スポンサーサイト

スポンサード リンク

Pagination

Utility

links

amazon

文学 韓国ドラマ 文学・評論 文庫新書 絵本・児童書 音楽 エンタメヘルス・ビューティー パソコン・周辺機器 ペット用品 洋書

rakuten

楽天市場 楽天ブックスTOP
楽天写真館 楽天トラベル
ホテル・旅館ランキング(全国)
楽天銀行  楽天カード
 

card

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。