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上でも下でもない踊り場で

世の中スマホ小説化している、らしい。スマホ小説で検索したら、『E★エブリスタ』がいちばん上でした。「自社表現基準綱領」欄を開くと、このように書かれていました。

・・・青少年の利用に際して健全で安心・安全な環境作りに十分配慮し、 提供するコンテンツが青少年の健全な育成を阻害することが無いように努めるべく、当社が当サイト上で行う表現に関し、 「性」、「暴力」、「自殺」、「犯罪行為」、「その他青少年の健全な育成を阻害しうるもの」の5つの分野(以下「当該分野」という。)」については、 画像・描写・音声その他の表現方法により、 当サイトを利用する青少年の当該分野に対する刺激や興味を直接的かつ著しく喚起・助長しないように努めることとしています。(URL


これら全部、文学の得意技じゃないですか。映画もそう。テレビドラマでさえ泥沼化すれば、きれいごとじゃ済まされません。なぜこのようなことになるのかと言えば、光は闇とともにあるからです。闇なき光はコンビニで幾らで売っている光です。効率よく大量生産するためにはシステムを構築し、均一化させる必要があるでしょう。だから当然、コンビニの棚に置かれた光は似たようなものになっていきます。もう知っているものを繰り返し「知る」という行為を延々と続けているわけです。「人々は見る覚悟があるものだけしか見ることができない。」とエマソンが言っているように、すでに知っていることだけを知ろうとしているかのようです。が、闇も書かれて(表現されて)いると言うかもしれません。すでに知っている闇です。手探りで歩こうにも歩けるもンじゃないです。名付けようもない恐怖が襲ってきます。把握できないものこそ闇でしょう。直視できないからこそ闇でしょう。この闇の背後から立ち上がってくる光が、光です。コンビニで売っている光とはえらい違い。そういう意味で光は闇とともにあるのです。グロテスクな変質者ぶりを開陳しろということではないし、下劣な人間性を威張って表現しろ、と言いたいわけでもないです。ただ、掘り下げれば闇です。目玉をえぐり獲られるぞ。神がいる。見つめてはいけない領域まで踏み込んでしまったのでしょうか。そこまで来て、闇。そうして神。光は神が動いたときの、影なのか。いまだ肉眼で見たことはないけれども、これまであたってきた、過去の作品の数々が、そう教えてくれます。『E★エブリスタ』で語り過ぎですか。いや、そこじゃなくて。世の中スマホ小説化している、らしい。

♦ ♦ ♦

この連鎖するエピソードの中で、一つのテーマが中心的役割を演じている。眼、眼差し、見ることと見られることの相互性のテーマである。(略)
ーーペルセウスは、怪物の首を斬るために、そしてそれから、その首を振りまわして、敵どもを石に変えてしまうために、慎重に反対側の方へ眼をそらすのであるーー
今問題にしている怪物的なものは、人がそれを見るためには、神への直接的な対決として正面からしか近づけず、自分が失われる危険を承知のうえで、その視線の魔力の領域の中に入っていかねばならないという特徴を持っている。ゴルゴンを見るということは、その眼の中を見つめるということであり、視線を交わすことによって自分自身であることをやめ、生きることをやめて、ゴルゴンと同じように死の神となることなのである。ゴルゴをじろじろと見つめることは、その眼の中で視力を失い、自らが石に変わり、盲目になり、暗黒の中に入ることなのである。
正面と正面との対決において、人間は神とは対照的な位置に身を置く。人間はつねにその軸の中で自らを維持する。この相互性は、二重性ーー対面する人間と神ーーと同時に、不可分性、さらには同一性をも、それとなく示すのである。視線で射すくめるということは、人間が神からその視線を離したり、その顔をそらしたりもはやできなくなること、その眼が、自分が神を見つめるのと同じように自分を見つめている神の眼の中に失われてしまうこと、そして彼自身がこの神の支配する世界の中に投げ込まれてしまうことを意味する。
眼の中の死―古代ギリシアにおける他者の像 (叢書・ウニベルシタス) pp.102-107(続く)

♦ ♦ ♦

どちらか(どれか)に決めてしまうと気がラクですね。対象との距離や位置が関係性を決めているので、その距離や位置が対象とともに「存在する」ということだから、どちらか(どれか)に決めてしまうことで気がラクになるのは、単純に観測法の問題なのです。そこをあえて上でもなく下でもない踊り場に据えて煮え切らない苦行に(?)さらされ、灼けたザラ紙になって惚けているのはいったいどういうことなんでしょうか。目標とか努力とか、まったくもってその通りなのですが、あの映画のセリフのように「豹が斑点を変えられるか?」、ですよ。運命論者ではないけれど、豹が斑点を変えられないこともまた事実で、そうなると踊り場で惚けていることにもなにやら意味らしいものが見えてくるようですが、しかしまた同時に、シカツメらしく語るほどのものでもないのです。ただ「そうである」という話なんだなぁ。
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Comment

まっく

こんにちは^^
多元論を一元論的に、むしろ一元論を多元論的に表現することは一つの課題として面白く感じています。それを前面に出すことなく…などということはどうでもよくて(笑)、携帯小説の縛りに驚きました。
本当に醜悪で隠したいもの、それは読む人でも書く人にもありませんね。

p.s.
コメント頂いていたのに気づきませんでした、有難う御座います♪
  • URL
  • 2014/12/12 12:23

kairou

まっくさん、冬ですね。脚が痛いです。。

、、、お気になさらずに。私もこの調子です、笑。

一元論、多元論、そうなんですよね。たとえば好きでフランス文学とか読むじゃないですか。哲学なんてそれ以上というか、ほぼすべて、ですよね。キリスト教圏の仕事はみな神に向かって行われていますから、自動的に私もそちらに顔を向けざるを得ないというか、向けないとウソです(それ読んでませんから)。と言いつつ、多神教の国籍なので、ほんとうにはぜったいに分かりっこないなぁ、と諦めていますけど。単純に、興味深いなぁ、とは思っています。

目眩がするほど、さらに、もっともっと時代をさかのぼれば、1人の人類から枝分かれしたらしいので、文化も何も関係なくなって、人類共通の認識にまでいたる、わけで、その部分で「わかる〜」、みたいなところもフシギと伝達し合えたりして、なかなか奥が深いです。錯覚ですが、笑。

いま、フト思ったんですけど、
錯覚と触覚の音が似ているのは偶然ではないですね。
私の触覚が「わかる〜」と言っているにすぎないんです。それがつまり錯覚だという。とするなら「わかる〜」っていう感覚は、いったい何なんでしょうか。1つの疑問が10の疑問を連れてきます。この年末に。(・_・?)
  • URL
  • 2014/12/30 00:09
  • Edit

まっく

更に遅い時間にこんばんは(笑)

錯覚と触覚の話は面白いですね。
私どもの稽古では「感覚は嘘を吐く(錯覚である)」と叩き込まれます。さらに「分かる」と想ったときは「分かってない」ときだ、とも。
これは出来る、出来ないの世界の話だからですが、kairouさんの「わかる~」によって「なにが出来るようになるのか?」と考えることで同じことが言えそうな気がしなくもないです。

そして次の記事にもコメントするのは私らしくもなく控えようと想いますので、こちらから。
佳い年をお迎えください。
  • URL
  • 2014/12/30 04:02

kairou

4時だと「おはよう」です。まっくさんの感覚だと「こんばんは」なんですね。ながい長い夜です^^

「なにが出来るようになるのか?」

うーん、説明が、ややこしくなりそうです。

読書って、対話だと思うから。
だれと対話しているのかと言えば、複数人の「私」とです。この「私」は読書している私(例/kairou)とは別人です。でも私なんです。私であり私でないという、まるでインチキな禅問答みたいな話なんですが(だから複数人の「私」としか書けない)、その「私」との世界の共有じゃないでしょうか。なにが出来るようになるのかといえば。ただし、この場合の共有は創造するという意味なので、かならず、ズレていくんですよね。そのズレを私たちは通常(日常交わす言葉に置き換えれば)、創造すると言っています。だから錯覚でOKなんです。っていうか、それしかないです。

ここに「わかる〜」っていう感覚が来ます。
複数人の「私」が、私とどこかで出あってしまったんでしょうか。あるいは単に、すり寄って行きたいだけかも!?

極限まで似せて作ってもそれは「似せて作ったもの」ですよね。だからズレていく。
さらに、その極限を超えて、そのものになる、というのは、まっくさんの世界ではないでしょうか。私はとてもとても^^;

よいお年を〜、って日付変わってました。
あけましておめでとうございます^^
  • URL
  • 2015/01/01 00:51

まっく

新年、おめでたくお迎えであると祈りつつ。


私どもの稽古で言えば「出遭う」のは「無限かつ零の私(自己)」となります。ですので永遠に出遭えないのです。「分かる」「分かった」と立ち止まってしまったときに堕落の道に堕ちていった無数の先達を想い出します。kairouさんの仰る通り、永遠の「ズレ」を保ち続ける「分かる」だけが生き残り得る「資格」を持って来たようです。
「不在の私」と出遭う時が一つの「分かる」資格を得られるかもしれませんが五里霧中です。霧中だからこそ歩き続けなくてはならないですが、立ち止まることが死を意味することを見失いがちな現在を戒めることを銘記して今年も精進します。

良いお年を♪^^
  • URL
  • 2015/01/02 21:46

kairou

そういえば、こんな記事を書いたことも、ありました。

話がつうじない( http://itu.blog5.fc2.com/blog-entry-219.html )。

私が私になるほどに、私はだれとも話が通じなくなる、という記事です。「それでも分かり合いたい願いだけが身ぶり手ぶりを止めない。」なんて、気取りが見てとれますね、笑。

そのズレに耐えることかなぁ、って今なら思いますけど。しるしを付け直していきますけど。これはけっして暗く悲しいイメージではないです。辺りの闇や明るみや、湿気を浴びて、いっぱいに吸い込んで、まばたきの速さでは計れないスピードで、ただそこに立つ、木のようなイメージです。

ほんとは同じことを言っているのかもしれないけれども、その言葉が発せられる根もとが違うので、違うように見えているだけかもしれないけれども・・・。

まっくさんは、全体を修行で括っておられるように、お見受けしました(違っていたら、ごめんなさい)。私の場合は逆で、全体の括りを解いていく方向から来るし、進みます。豪勢ですね、なんと根もとからズレまくりです! 笑。

まっくさんは、そう解釈するのかぁ、って面白く読ませていただきました^^

それにしても付き合いが長いですね。上の子が幼稚園児だったから。いま高校2年生ですよ。近くに行くときがあったら、寄らせていただきます。抜き打ちで。

  • URL
  • 2015/01/04 22:01

まっく

ああ、「話が通じない」もkairouさんのコメントも、私どもの稽古に通じるものだと想います。特に「…木のようなイメージ」。

当たり前なのですが、私が私であればあるほど、あなたはあなたを強固にします。その敵対関係での勝ち負けは力勝負にしかならないので、力勝負に持ち込ま(れ)ないスキルが必要、と言葉で言えば簡単なことなのですが…(苦笑)もっとも修行というのではないですね、あくまでスキルなので「練習」です。

こないだ、mさんとも八年の付き合いになるのかー、と驚いてたところです。
近場に来たらお気軽にお声掛け下さいまし。
  • URL
  • 2015/01/08 00:20

kairou

今世紀中には^^;
  • URL
  • 2015/01/08 21:16

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