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『小説修業』 小島信夫 保坂和志

小説修業


『小説修業』 小島信夫 保坂和志
ほんとうに小島信夫さんは死んでしまったのだろうか。いまだに信じられない気持ち…。

1989年の12月、当時カルチャーセンターに勤めていた保坂和志さんは、大掛かりな「創作コース」を企画し、その校長の座に小島信夫さんを予定していた。そこでさっそく「創作コース」の概要を添えた手紙を送り、後日電話してみたところ、小島さんからの回答は次のようなものであった、らしい。

「あなたの考えたカリキュラムの中には小説に必要なことがすべて入っている。しかし、実際小説を書いている人間はこんなことをいちいち考えていないし、考えたからといって小説が書けるものではない。私も市民講座のような場所でよく小説の話をするのだけれど、そのたび『私の小説を読んでくれ』といって持ってくる人がいて困っている。『私はその暇がない』と断っても、翌日家の郵便受けに勝手に入れていってしまう。そういう小説は実際、ひとつも面白いところがない。小説は一箇所でも面白いところがあればいい。それだけで小説になる。しかしそれがないから困る。本当に一箇所も面白いところがない。それはもうこっちはどうやっても教えることができないんだ」(同・186頁~)

何度か練り直したプランを小島さんに送ってみても情け容赦なく否定。保坂さんは諦めず、今度は読者として手紙を書いた。すると、「あなたは面白いことを言う。一度会いましょう」、と言ってくれたのだそうだ。
このとき保坂さんのデビュー作『プレーンソング』は、『群像』の編集部にわたっていたそうだが、「掲載のメドは立っていなくて」、ただの小説好きの人として小島さんと面会したらしい。これが出会いだと、この本の後ろの方に書かれている。ちなみに保坂さんの小説は、自ら企画したカリキュラムをまったく無視して書いた小説だったと書かれている。

この本は「小島信夫⇔保坂和志」の往復書簡もので、実践的な小説の書き方について書かれているのではなく、「小説」について書かれている。「小説」を思考している。言ってることが難しく、ことに小島さんはあのとおりの方なので難しい。それを保坂さんがみんなに伝わるかたちでまもめて書き直しているふうでもあり、その保坂さんの言うことも難しい。しかし実践的な小説の書き方について書かれた本など足もとにも及ばないような、おもしろいことが書かれている。以前、保坂さんへの感想文にも書いたけど、元気になる1冊で、よほど私はこのお二方の話が好きなのだな、と思ったりした。この記事は、感想文にはならないけれども、加えて、気まぐれな抜き出し方だけど、ザッと下に出しておこうかと。

(小島→保坂)いつだったか、あなたは、
「ぼくは過去を振り返るということが出てくるのを好まない」
といっていたような気がするが、どうでしょうか。ぼくはこうして、わざと問いたださずにひとりで想像しているのがとても気持がよい。まだいっていなかったが、ぼくは小説の中で、あなたらしい人物がぼくに話しかけてくれて、ぼくはぼくなりに何かを考えていながら、耳を傾けている、というのが、とてもいい心持だ。その理由は、いくらかすぐには納得が行かなくて、うなずきながら考えている、というのは、望ましい会話だと思うことがある。だいたいがぼくたちは、何もかもすぐ通じあうというわけではない。そこで時間をかける。そういう時間がたいへんいい。大ゲサにいうと、それが理想かもしれない。(17頁)


(保坂→小島)「リアリティ」というのは「確かにある」と感じることですむような安定したものではないのです。リアリティというのは「なかったかもしれない」と、ある切実さをもって感じるところから出てくる感情であり、「あることが間違いないのは現にこの目で見ているからだけど、私はいままで見えることを『ある』と思い、見えないことを『ない』と単純に思ってきただろうか」というような、事態が認識の回路の許容量をこえて、冷静な計算が不能になるようなところに源泉を持つ、心の一種防衛的な作用のことだ――というのが私の考えです。(24頁)


(保坂→小島)この「その人だけのやり方」というのが、またまた誤解を招くような表現なのですが、事前に考えている計画がすべて無効になった後に残された、うまくできる保証のない何かのことで、そのときにだけ「その人」が現われてくるということで、もうそれは本当は「その人」ではなくて「小説」なのです。小説とは、「ああも書けるこうも書ける」という選択肢の中から書き手が主体的に選んだようなものはつまらないもので、「こうとしか書けなかった」というのが小説で、それが「その人」なのです。(37頁~)


(小島→保坂)三回めの保坂さんの手紙は、終りの方になると、トルストイのことになっていた。その中で、面白いいい方をしている。それは、トルストイがヨーロッパでは小説が<話>であったものを、違う類のものにしてしまった。人間のぜんたい、自然のぜんたいを扱うものにしてしまった、ということだ。(40頁・以下略)
トルストイは私の記憶では『イワンの馬鹿』に代わるものをかいた。それはイワンが馬鹿であることで、すべてがうまく行く、というふうのもので、トルストイの思い通りに危険もなく運ばれて行く式のものだ。
そんなふうにして彼は著作を寄附し(寄附してすむものであろうか)、とうとう家出をした。彼は可能なものを書き尽くしてしまった、と保坂さんがいうならば、それはたぶん以上のようなことであろうか。
私ははじめの方で、どんなに独自のものであったか、ということをいったが、述べないままに終わった。彼の書く人間は、ちょうど彼自身と同じように危険なものであった。彼のぜんたいは、ただのぜんたいではなくて、独特な厄介なものから成立っていた。(53頁)


(保坂→小島)人間は<意味>を生きているのではなくて、<行為>を生きているのです。(略)
前回私は、フィクションがウソくさくてたまらないからと言ってノンフィクションやルポルタージュが読みたいわけではないと書きましたが、結局、事実を書いただけではやっぱり<意味>ばかりのものになってしまいます。(137頁)


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