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『りすん』 諏訪哲史

りすん


『りすん』 諏訪哲史
現代文学シーンにいまだ恥ずかしげもなくはびこるところの、三つの紋切型

紋切型(1) 異常さの濫用(暴力・殺人・ドラッグ・変態性欲など)。
紋切型(2) 愛する者の死(不治の病・死別と号泣・記憶の美化)。
紋切型(3) 入れ子形式(メタフィクション)は前衛小説の一手法である、という固定観念。
引用 : 講談社BOOK倶楽部より

諏訪さんのコラム記事。ご参考までに。

さて、『りすん』の感想文だけど。
どう書けばいいのか数日考えてみたけれど…、どう書けばいいのか。
とりあえず内容と紹介文を 先の同サイト から抜き出してみる。

遠い親戚だけど兄妹のように育った2人。妹は骨髄癌におかされ長期入院している。病室で繰り広げられる2人の会話。ある時、2人は同室の女性患者が自分たちの会話を盗聴していることに気づく。2人は彼ら固有の生を求め、物語の紋切り型と小説の作為とに抗い続けるが――。小説とは何か、言葉とは何か、小説を書くという行為とは何か。さまざまな問いを底流におきながら、兄妹の切ない物語として、リズミカルな言葉で描かれた待望の長篇。芥川賞受賞後、初の小説!


この小説は全文カギカッコ、会話文で進む。地の文がない。どちらかというと、身軽に今風に、一見して、書き流されているかのようにも見える。全文カギカッコという方法だけを目の端でさらっと捕まえていくとすれば、「なんで今更この方法で書くの」と言われてしまいそうだ。また終りまで読んでもらったとして、諏訪さんの仕掛け方について、「すでに誰かがやっているよ」と野次る声も聞こえてきそう。なにしろ読む側の固定観念との戦いで、そこを上手に均しながら、それでもこのように書かざるを得なかったと意志を貫いていかなければならないと、私などは思うのだけれども、まぁ言うは易し、ぶっちゃけ、フツーに書いた方が、敵も少なくて済むだろうし、じっさい書きやすいのではないだろうか?

そんなことは百も承知で諏訪さんは書かれているのでしょう。
検索してみると、私の(お節介な)心配などよそに、意外にも好評な理解してもらえている感想文に幾つも行き当たり、それによって、また私は別の感想を抱いてしまったのだが…、それはつまり、こういうことなのだ。

小説を書く側の人よりも、読む側の人の方こそが、じつは自由に受けとめているのではないか、ということ。同業者に嫌われる作家というのがいて、諏訪さんはまさにそれにあたると思われる。同業者というのは小説を勉強し自ら書いて(たいていの場合、売りに出して)いる人のことだけど、彼らこそ頭がカタイのではないだろうかと。フツーの読者は、フツーと言ってもなんだけど好きで気ままに読んでいる人ね、そういう人たちの方が、自由に読めているのではないかと、そんな気がしてきたのだ。
作家は勉強するとダメになるという意見もある。小説と対面したとき、脳の働きの問題で、もっとも最短距離で判断しようとする。過去に勉強した(覚えた)類型の数々がフラッシュバックされて、あるいは、ほとんど無意識のうちに判断、処理されていく。その類型モデルから生理に反して、逆にまわしていくことの難しさ。賢い人に「なってしまった」人ほどドツボに嵌るのである。あとは長年の蓄積をもとに自動運動で柵で仕切った狭い庭のなかをウロウロと歩きまわるという。何度も同じ風景を見、何度でも「出会う」というのは、こういう状態のことだろう。批判を回避するための理屈をたっぷりと用意しつつ、ただ歩きなれた同じ場所を歩き続けているのだ。

自由に読んでくれる人は確実に存在している。諏訪さんの小説は、そのことを思い出させる。「この人なんか好きだ」という意見が多かったような気がするが、「なんか」って何だろう。じつは私も、「この人なんか好きだ」と思っている。

もう1つ。同サイト特集ページの Message から、諏訪さんの言葉を。

振り返るほどの生の歴史もないというのに、兄と妹は、閉ざされた病室で、過去の豊饒な世界の広がりに触れようとする。伸ばされたその手、その指は、今では存在しない時間、存在しない場所を探り当て、そこに憩う。…その指先からつむがれるのはただ、他愛ない、二人の言葉だけ。言葉がかつての死者を生かし、廃墟のホテルを甦らせ、そこで流された音楽、交された多くの会話、打ち合わされるシャンパングラスの栄華を、夢の如く想起させる。


これで見ると、会話だけで進んでいく小説はまるで、会話の原点へと戻ろうとしているかのようだ。会話は探る。「Aです」と言いながら「A」を探る。「Bではない」と言いながら「B」を探る。途中で演劇じみてくる会話でさえも原点へと戻れば探りのしぐさ、ないものを作り、あるものを変えていく、しぐさ。じつはどこにも寄る辺のない、別の言い方をすれば荒唐無稽な会話である。一般的には「リアルな会話かどうか」をまずは見られてしまうのだろうが、どうもその辺りでは説明のつかない、もっと生っぽくてウネウネと動きまわる会話となっている。
おそらく言葉から意味を抜いて音へと回帰させたのが成功しているのではないか、と私は読みながら思ったのだけど、それはわからない。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。ただ音へと回帰させた(ように私には感じられた)書き込みは徹底していると思う。駄洒落みたいにして書いているのだけれど、それこそアサッテでポンパなひゃるけるひーなのだが、意味を抜いて音に戻し、会話の原点へと戻すことでしか言い表せない言葉もあるのではないか。あらゆる作為から身をかわして逃れようする。なぜ逃れる必要があるのかといえば、私の声を聞くためである。雑音まみれから言葉を救い出すためだ。それで言うとカギカッコすら不要だったかもしれない。造作なく投げ出したようにも見える、けれども、言葉を音へと帰し、放ってしまう、そういう言葉の守り方もある。言葉を使って勝負している人々にとってみれは、カツンと何かがあたってなかなか出来ない仕事だと思う。
諏訪さんは意外と硬派で正統的な小説家ではないかと、私は勝手に決めている、笑。
アサッテもりすんも両方ともよかった。次も、楽しみです。

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