スポンサード リンク

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スポンサード リンク

読み聞かせで何を伝えたいのか

週に一度、小学校の各教室にお邪魔して、本の読み聞かせをしています。授業が始まる前の、朝の10分~15分くらいのお時間をいただいて。

小学校は1年生から6年生までと幅が広く、なにを読めばいいのかで悩んでしまいますね。難しい話は理解できないから退屈だろうし、かといって年より易しいと、これまた退屈で。その時々、ぴったりの書物を開いて読んで聞かせることができるなら、それに越したことはないわけです。しかしそれがなにしろ難しい。

今日は5年生の教室に入りました。
5年生です。何を読めばいいのでしょうか。正直、決めかねたまま、朝、学校へ行きました。落語が無難でいいなとは思っていたのです。すべらない笑いであれば、どんな子にも対応してくれるし、こちらも気が楽です。笑い、ただ読めばいい、ちょっと演出するくらいで。
ところが落語は前々回に入った人が、すでにやってしまっています。間隔がもう少し開いていれば落語でも別の話をやってもよかったと思いますけど、それはもうできない、困りました。

そこで思ったのは、読み聞かせで何を伝えたいのか、ということです。
ウケることだけしか考えていませんでした。シラッとされたくなくて。べつに笑いでなくてもいいのだけれど、「おもしろかった」と言ってもらいたかったのです。子どもたちに、すっと受け入れてもらえる話を考えていたのです。5年生の場合、それは何なのか、私には掴めなくて。高学年ともなれば個人差がくっきりと表われてきますね。前回は1年生のクラスに入ったのだけど、雰囲気がもうぜんぜん違います。低学年ほど読み聞かせは楽に出来ると思います。

私は読み聞かせで何を伝えたいのだろう。
朝の短い時間に考えてみました。
それで持参したのは、↓この本でした。

さつよ媼 おらの一生、貧乏と辛抱


「幸せになった九十六歳のいま、長く苦しかった半生を一気に語りだした!」と帯には書かれています。
宮城県のおばあちゃんで、お国言葉がキョーレツです。おばあちゃんの語りで丸々本1冊分。語りの原点です。少し抜き出してみますね。


おらは生まれたまんま
九十六になっても生まれたまんま
なんじょに学校しないもの
だから話をするたって、まっすぐに正直に語るの
嘘の語りようも知らないもの

おらは貧乏の生き証人
明治の末の貧乏盛りに生まれて
国も貧乏、村も貧乏
なかでもわが家は貧乏者(びんぼたがり)の一等賞

九つで子守りに貸され
十六で製糸場に売られ
二十一で嫁にくれられ
あとは土方ひとすじ
汗水たらして土を背負い
いくら骨揺(ほねほろ)って稼いでも
いつでも貧乏真っ最中
テレビの「おしん」どころでなかったよ
一番楽だったのは製糸場
テレビの「野麦峠」どころか、なんと別天地だったね

おらは貧乏したから
ひもじい人の気持ちがわかるよ
かなしい人の気持ちもわかるよ
だからどんな人にも親切にしたよ
お母(が)つぁん、教えてくれたもの
「人を助けてわが身助かる」って

おらは人と比べないもの
おらは欲濃(よくこ)くしないもの
うらやましがったり、うらんだりして
心荒らしていられないもの
昔の人たち、教(おせ)えてくれたよ
「雪と欲ぁ、積もるほど道忘れる」って

そうやって百歳(ひゃく)ちかくまで生きてきたら
みんな、おらのこと
「さつよさんはいいなあ、入り日明るくて(※)」って
(※)若いとき苦労しても老いて幸せなこと
おら、もとは地獄、いまは殿様だよ
世の中平(たい)らだね
人は生きてるんでなくて生かされてるんだって

おらは生まれたまんま
嘘の語りようも知らないから
おらの一生語るたって、ありのまんまだよ
さつよ媼 おらの一生、貧乏と辛抱


貧乏自慢を聞かせてやりたかったわけではないです。昔の人はこんなに苦労して、あなたたちは、なんと恵まれた時代を生きているのかと、説教臭く読み聞かせしたかったわけではなく。

私が伝えたかったのは、場所と時代が違えば、これだけ隔たりがある。
まず言っている意味が分からない。おばあちゃんの東北弁がキツくて。ほとんど外国語ですね。同じ日本人であるのにこれだけ言葉が通じないという現実に驚いて欲しかった。場所が違えば常識がまるで違うことに気づいて欲しかったのです。

時代についても同様で、いま現在の当たり前が全てではないわけですよね。まして外国の話ともなれば、もっとそうです。活字だけを追いかけて、脳内だけで生きている人にはいくら説明しても分かってもらえないのだけれど、私たちは、私たちの想像以上にバラバラの存在で、個性の時代なんて、そんなものじゃないですよ、この通じなさは。ほんとうにバラバラに掛け離れています。どうあるべきか、という話ではなく。考える(解釈する)以前。私たちの考えを置き去りにして、すでに広がっている地平を、解釈なしで眺めてみる、つまり、そのままガツンとやられてみる、ということです。

そのことを私は読み聞かせをとおして伝えたかったのだと思います。
けっきょく、迷ったけど、この本を読みましたから。

私の考え、感覚、経験が、世の中の全てではない。
私の知らない場所で、知らない「私」ばかりが、そこいらじゅうに生きている。
その状態を見たとき、すぐに解釈へと、跳んでしまうけど、現代は解釈の飽和状態で、もう解釈する必要がないくらいに解釈で有り余っているわけです。ここはフシギと太宰『パンドラ~』記事と重なりますが。まったくどこへ行っても太宰とぶつかってしまいますね、笑。

解釈は要らないのです。ほんとうに。
ポンと跳んでしまわないで、たとえば、さつよ媼のように、それが当たり前だと思って一生懸命に生きてきた人がいた。この「当たり前だと思って」の箇所が、太宰の言う「ありのまま」ということだし、↑に書いた、「隔たりに気づき、ガツンとやられる」ということです。

今となっては「そのまま見る」ことこそ、もっとも難しいことなのでは…?
さつよ媼の時代は逆でした。みんなが媼のように、それが当たり前だと思っていたのですね。この言い方は正しくないですが。それが当たり前だと腹に杭を打った、ということです。
杭を打たなくても(とりあえず)生きていける現代の子どもたちは、いたずらに目先が複雑になり、解釈の嵐にモミクチャにされ、そこで「選択する能力」という言葉が出てくるのだけれど、ポンと跳んで解釈すればの話ですよ、それ以前に「そのまま見る」ことが出来なければ、風向きによってはどこへでも、嵐が巻き起こるままに。
だから私は引き戻しているのです。ちょっと書き過ぎましたけど。

とはいえ、今日の読み聞かせ。
本を読みつつ、子どもたちをのせて巻き込みつつ、さらに伝えたいところまで持って行くには、少々時間が足りなかったような気がしています。私に1時間ください。そうしたら必ずや伝えることができます。

いや上手な人は短い時間内でも、きっと伝えることができるものなのです。私は下っ端でダメですけど。
この読み聞かせのボランティア、なんの気なしに始めたけれど、私自身、とても勉強になりますね。じっさいに子どもたちを相手にするので反応がそのまま伝わってくるし。
子どもは手厳しいですよ。すり合せがいいですね。私の方こそ先に、ガツンとやられています。この記事は、後に書いた、報告書みたいなものです。

スポンサード リンク

Pagination

Comment

Post Your Comment

コメント登録フォーム
公開設定

Utility

links

amazon

文学 韓国ドラマ 文学・評論 文庫新書 絵本・児童書 音楽 エンタメヘルス・ビューティー パソコン・周辺機器 ペット用品 洋書

rakuten

楽天市場 楽天ブックスTOP
楽天写真館 楽天トラベル
ホテル・旅館ランキング(全国)
楽天銀行  楽天カード
 

card

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。