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ジャン・ジュネ『葬儀』彫像の胸をたち割って

一般的に、どう思われているのか。そこを通ってこちら側まで(納得させつつ)引っぱって来なければならないから、その距離が離れているほど感想文は書きにくくなる。ジュネなどもう頭が痛い。もぐらたたきの要領でハンマーを振り下ろす、いやこれは単なる譬えでほとんど嘘だけど、できるだけ私の考えどおりに誘導しつつ、できるかぎり私とは別方向へと発ってくれるなら(私が消えて誰かのものになるなら)、こんなに嬉しいことはないけれど、これがなかなか難しい。

・過去記事(プロフィール付)→ ジャン・ジュネ『泥棒日記』

『葬儀』の全体の感想文は諦めて、みじかくコマ切れに書きます。
いつか完結して私の知らぬ間に『葬儀』の全体が浮かび上がっていればいいな。思いついたら少しずつ書き加える感じで。

ジュネの文学作品のなかでも最大の問題作が、無削除限定私家版をもとに生田耕作の名訳で今甦る。同性愛行為の激烈な描写とナチス讃美ともとらえかねない極度の政治的寓話が渾然一体となった夢幻劇小説。葬儀 (河出文庫)/Jean Genet 生田 耕作


↑アマゾンの紹介文だけど。当時の流通に乗せるには過激だったけど、現在では同性愛そのものが珍しくはないし(もはやそれだけでは文学にはならない)、「激烈な描写」というほどでもないし、そこだけ取り上げて、さも仰天するよな身振りは大げさです。だけど『葬儀』の場合、この身振りは、スタンダードとなりつつあります。「ナチス讃美ともとらえかねない」、これについては解説にもちらっと書かれているけれど、いやいや、そういう話ではないです。まったく違うよと言ってもいいかも。ナチスを出して否定しないように書けば賛美しているように見えるかもしれない、という反動の強さはみてとれるけど、ほんとうにジュネはそんなことを書いているのかどうなのか。

たとえば同性愛など、当時はそうだった、かもしれない。でも私は現在の文学として読みたいわけで。ジュネだけでなく、「古典」と言われているような諸作品すべて(私には「古典」というものはなく、一般的な分け方ではね、くらいの認識だけです)。なので当時の受けとめ方を一方に置いて、もう一方では現在の私が読むことになります。またナチス云々についても同様で、当時の受けとめ方というのは、もちろん、あったと思うし、それはちょうど、なぜジュネはこのタイミングで場を設定したのか、そこへと導かれて行くのだろうし。現在の文学として読んだとしても(つまり歴史を逆さまに見たとしても)、事情はなにひとつ変わらないと思うけど、
先に書いた、一般的な解釈とは、ずいぶんと離れた場所で読書しているような気がしてならないのですが…。
本題に入るまえに歩幅を合わせる作業が、とても多いですね。
感想文を書くのが大変そうでしょう? 笑。

澁澤龍彦翻訳全集〈10〉 ジャン・ジュネ全集 第2巻 ブレストの乱暴者,美神の館 他


コマ切れの紹介に入るまえに、ざっくりとジュネの魅力を書いておきます。
なにも考えないで読むだけで心地よいです。生田先生の訳が素晴らしいということもあるけれど、『泥棒日記』も良かったし、あと澁澤龍彦さんの訳も良かったから、どう訳されても頑として崩れない、もとの良さが、そもそも在るのじゃないかと、ぼんやりと考えたりしますが。この心地よさは、なかなか良いです。私など疲れているとき、ジュネを開いてみたりします。

しかしこれは表面的なことで、意味を追いかけて行くと、とたんに分からなくなります。ジュネは言葉の使い方以前にものの見方が特殊で分かりにくいです。どこからどう放熱しているのか掴みにくい。1度ながして読んだだけでは分からない作家だと思います。ジュネ自身にならないと(それに近づいて行かないと)、ジュネはこちらを振り向いてくれない感じですね。仲間とそうでない者を、なんとなく隔てているような、そんな気さえします。

もう1つ。心地よいと同じ話かもしれないけれど。ジュネを読むと自由になれます。仲間かどうかで隔てると書いたことと矛盾するようだけど、そうでもなくて。仲間でありさえすれば、ジュネはとても自由にさせてくれます。本を読んでいる私はとても自由です。この自由な感じは他の作家ではちょっとないような気がしていますが…、どうしてそう感じるのか自分でもよく分かりません。おそらく、なぜジュネは小説(その他の創作活動も)を書くのか、その大もとの理由に根ざしているのではないかと想像しますが。開放しようとする、ただその一点に向かって、(強弱はあっても)すべての作品は書かれていったのかも。

まずは、目についた箇所を、2つばかし抜き出しておきます。

(今まで私は一人の死者について、すなわち神について、それとも、物(オブジェ)について語ってきた、がその中に閉じ込められている生者を紹介する間際になって、彼の言葉を繰返し、その身振りを示し、その話しぶりを再現する間際になって、私は怖じ気づく。自分の記憶が不確かで、ジャンを裏切ることになるのを案じるからではなく、むしろ逆に、この上なく忠実に彼のことを思い出せる自信があるために、私の呼びかけに応じて彼が眼前に飛び出しかねないからだ。ここまでの五十頁あまりはつれない神の足もとにぬかずいての、氷の彫像をめぐっての論議であるとすれば、これから先の文章は、その神の、その彫像の胸をたち割って二十歳(はたち)の青年を釈放することがねらいである。これらの文章は、聖櫃(せいひつ)を開いてさいごに聖パンを展示するための鍵であり、開幕を告げる拍子木のしらべは、ジャンに語らせるにあたっての私の胸の動悸に、ほんのすこし綾づけしただけのものに過ぎない)70頁~


ジャン・D……という英雄にかんして、私はもっとはっきりした口調で語り、事実と日付けを引き合いに、その姿を示したい気持がないわけでもない。そのような形式は、虚しく、それに偽りだ。歌だけが私にとって彼が何であったかをまだしも大過なく語れるだろう。けれども詩人の音域は限られている。小説家はどのような主題とも取組み、どのような人物にかんしてもつねに厳密な的確さをもって語り、多様性を獲得することができるが、詩人のほうは片隅に悪と不幸のしるしを宿した連中だけを自分の方に引き寄せたい心の欲求に打ち勝てない、したがって私の書く作中人物はどれもみな似通っている。彼らは、ほとんど変化のないかたちで、同じ瞬間、同じ危険を生きている、そして彼らについて語るのに、彼らから霊感を得た私の言葉は、同じ調子で、同じ詩を繰返すのである。130頁


つづきは、いつになることやら。

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