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芥川賞全集4~第21回『本の話』由起しげ子


石川達三から間をとばして、いまさっき読み終えたところが興味深い内容だったので、こちらを先に書きます。第21回芥川賞受賞作(昭和24年上半期)、由起しげ子『本の話』。
全文こちらで読めます→ 日本ペンクラブ電子文藝館

みじかい話です。ざっと内容を。
「私」は童話作家(らしい)で貧しい暮らしをしていますが、そこへ電報がきて姉だけでなく義兄も具合が悪いらしいことが分かります。この義兄さんは大学教授で爪に火をともすような暮らしぶりのなかで、愛する妻のためにすべてをなげうって看病したのですが、お陰で妻は生き永らえ、じぶんが代わりに痩せ細り、亡くなってしまいます。
この義兄さんの遺した数百冊もの本を売りに出し、そのお金で姉の病院代を支払おうと「私」は考え、本のリストを作り、整理します。その作業のなかで義兄がどんな気持ちでこの本を束ねたのか、まさに紐をほどいてゆく自分の手もとと、束ねてゆく義兄の指先が重なったように感じられて「私」は苦しくなります。しかしお金がなければ姉の病院代は支払えないので、苦しい、苦しい、思いながら、買い手のつきそうもない、あまりに専門すぎる書物の数々を、バラバラにしないで一纏めにして誰か買ってくれないものかと、あちこち問い合わせてみるのですが・・・。

由起しげ子節と言っていいような、魅力的な文章でした。
句読点の打ち方が気持ちよくて、私の呼吸と合っているのかどうかはともかくとして、彼女独特の進め方です。読んでいる人を掴んで放さない文章でした。
とくに変わったことはやっていなくて、むしろ文学の型どおり、な書きようではないかと思われます。たとえば出だしの数行ですが、義兄さんが亡くなったと書いて、どういう暮らしぶりだったのかを添えるように連ねたあとに、改行して、「私は寝台の鉄棒に頭をおしつけ、時々遠くに水の走るような音をきいていた。病室の天井のテックスが二枚はがれ、鉛管が二本のぞいていて、水はそこを走るのかもしれなかった。(同・7頁)」と続きます。手堅いです。そして一行アケ、時間を戻して、電報をもらったところからの経緯を詳しく語ります。「私」の心情を交えながら。文学的ですね。

内容は、途中まで良かったのだけど、最後になって、いきなり活字のようすが詰まって見えるほど、流れが変わってしまいました。演説口調になっています。ようするに欧米では学者や芸術家の仕事が生活に染みとおっているのに、日本ではまだまだ義兄のような真面目な学者が飢え死にするくらいに、ほんとうに価値を認めてもらえていない、というふうなことを言いたいらしく、そのことに対しての憤りが全面に出てしまったようです。

こういった演説口調や、文学的な型どおりの手堅さを抜きにしても、私は句読点の打ち方、掴んで放さない文章だけでも良いと思いました。内容なんてどうにでもなるわけだし。それよりも由起しげ子節が魅力的です。

森茉莉 由起しげ子 萩原葉子 (女性作家シリーズ)


ところで、この回はもう1人授賞しています。小谷剛『確証』、これから読みますが、選評が、おかしい、芥川賞、波乱含み、だったようです。

船橋聖一の選評だけを、ほとんど全文載せてみます。

第21回芥川賞選評  船橋聖一
第一回の銓衡委員会には、欠席した。第二回の時、私は「イペリット眼」を三点、「確証」を二点、峯雪榮を一点、として、投票した。それは、記名投票であったから、誰が何を推しているのかが、大体、わかった。
「イペリット眼」は、作者の批評精神が、もっと痛烈に、出ていれば、もっと強力に推したかったが、一寸、弱い気味があり、小谷剛のは、狙いが低く、文章にも、丹羽文雄や北條誠を、模倣している様なところがあるので、それが気になっていた。
投票は「本の話」と「雪明かり」に集まっていた。委員たちの空気は、堅実な作風を、高く買っているらしい。殊に、以前から芥川賞委員である先輩委員は、手堅い作風と、高邁な作家気風のようなものに、高い評価をしていることが、判明した。それが、由起しげ子や、光永鐵夫に、点をあつめた所以であった。
然し、堅実とか、手堅いとかいうことは、私は、少々飽きていた。新人賞の銓衡として、一応、それは、無事であり、それこそ、手堅い選び方であるだろうが、同時に、月並ということでもある。
――日本の文壇では、堅実な作風というものは、案外に、地盤を持っている。その反対の作風は、どうしても、達者すぎるという批判を受けがちであって、好意をもたれない。小谷剛などは、後者の典型だろう。
委員のうち、殊に、瀧井さんなどは、小谷剛の作風は、非常に、嫌いらしい。そして、光永氏を推して居られる。光永対小谷は、先ず、正反対の作風である。すると、由起しげ子は、可もなく不可もないという作風だから、川端さんや岸田さんや佐藤(春)さんが、支持されるのは、もっともな処で、この人に、十六点という高点が集り、当選確実となった。
私は、まだ、由起しげ子の取り澄ましたような気品は、信用していない。且つ、この婦人が、高名な画伯の夫人だと聞いて、よけい、賞をやりたくなくなった。然し、特に、この人の当選を邪魔してやろうという悪戯気までは起こらずにいたが、ふしぎにも、全委員一致の声として、この夫人一人の受賞には、不賛成が唱えられた。となると、次点は「雪明り」であるから、この二作が、並んで受賞されそうな危機を孕んだ。
私は、この連賞には、絶対反対であった。従って、危機であった。由起しげ子の高得点は仕方ないとしても、その連賞の相手が、光永では、あまりにも平々凡々である。堅実とはいう条、何の発展性もないではないか。旧文学の踏襲ではないか。マンネリズムではないか。
――最初、小谷は、丹羽君が、推していた。私は、小谷より「イペリット眼」の方が、好きである。然し、由起、光永の連賞式にくらべれば、小谷の方が、まだしもと思わざるを得なくなった。
瀧井さんや川端さんが、小谷をきらいなのは、よくかわる。それは、悪達者で、はったりが多く、興味のもち方が低い点で、カンベンがならぬのであろう。そう思ったので、私は、却って、小谷を推してやりたくなった。私でも推さないと、小谷のような作家は、みんなに、きらわれて、落伍してしまうだろうと思ったりした。
それにしても、今迄だって、日本の文壇では、達者な作家は、きらわれ勝ちだった。すぐ、継子扱いをうけた。然し、なぜ、達者が悪いのだろう。
私は席上、段々に抗議がしたくなってきた。これは、持前の悪い癖であった。私は、瀧井さんが、しきりに、光永を推すので、急に、それに対抗したくなった。堅実な光永を、引っこめ、悪達者な小谷を、押し出してみたくなった。
小谷は、まだ若い。狙いは低いし、助詞の省き方なぞに、人の模倣が目立つけれど、ドンドン書いている中に、狙いが高くなって行くかもしれない。或は、注文が殺到するうちに、堕落の淵に沈むかもしれない。つまり、海のものとも、山のものとも、定まらない。達者な人に、そういう心配は、附きものである。だからといって、いつも、落選していては、小谷のような人の、浮かび出る道はないわけだ。
ところが、二度目の投票をあけたら、小谷を推したのは、私ばかりではなく、宇野浩二さん、坂口安吾、丹羽文雄の四票をかち得ていた。丹羽は別として、宇野さんと坂口が、小谷を支持したのは、面白い風景だった。
斯くて、光永のためには、まったく気の毒な結果となったのである。(以下略)

、、、と、ここまで、ですが。
言いたい放題、スゴいですね。パフォーマンスが。臨場感たっぷりです。あとは小谷剛『確証』の感想文を書くときにでも。いつになることやら。

船橋聖一の指摘は、まったくそのとおりで笑ってしまいました。
むしろ「そのとおり」で耳にタコができそう。しかし発言した年月日を見ればそうとも言えないです。残念ながら未だに堅実は地盤を維持し、それ以外は排除の方向へとしぜんに動いて行きます。もちろんまっとうな理屈がついて。

型があってもなくても、私はどちらでもいいと思います。
堅実な書きようではないことに神経が逆撫でされるのは、それこそ型にこだわっているからで、逆じゃないかと。たいていの場合はそうは言わないのです。ちょっとでも見慣れない書き方をすると「型にこだわっている」と批判します。そして小説は型ではないとお決まりのコースを辿りますが、逆ですね。型にこだわっているから型が気になる。そこに文句を言いたくなる。どちらでもよいなら型はどうでもよくなると私は思うけど。

なので、型だけ持ってきて排除する気はないです。
「取り澄ましたような気品」というのは、なんとなく分かります。~苦しかった、とかいう書きようが、確かに。でも「可もなく不可もない」とは思いませんでした。

以前書いた石川達三の場合は、完璧なほどに文学的な型を持ってきて、そこへブラジル移民を流し込んだという感じでしたが、由起しげ子の場合はそうではなくて、型は使っているけれど、そこからはみ出してしまいそうな何かがよく見ると蠢いていて、個人的に書きたい衝動が強いです。どこがそう見えるのか、一般的な口調では説明できないけれど、申し訳ていどに句読点などと先に書いたけど、そういうことでもないかもしれない。
しかし文学的な完成度で言えば、石川の方が、ぜんぜん上です。たいそうな素材だし、演説口調にもなっていないし、由起しげ子のような拙い書きっぷりでもはないし。

おそらく書くまえの人間性の問題というか、視点の据えようというか、そういうことではないかと思われます。
才能込みで、「私」は「私」以外の人間にはなれないので、どう書こうとも「私」がそのまま表現されてしまうわけで、その「私」を私(kairou)なりに感じて、どうこう言っているのだと思います。

ほんとうに型なんてどうでもいいのです。
私はいつも、その「私」を手繰りながら読んでいます。念のため、善人か悪人かとジャッジするためではなく(そんなの価値観が違えば簡単に引っくり返る)、どういう人間だからどうだとハンコを押すためでもなく(閻魔様かぁ~)、小説で何をやりたいのか、その根っこの辺りを、むんずと捕まえて、みたいのです。その衝動の強い人に魅力を感じます。

と、私のわけのわからない説明だけではナンなので、
坂口安吾はこう言っているようです。
坂口安吾「入選の由起しげ子氏は文句のないものである。なんと云つても、底に光りかがやくものがある。すくなくとも、若干ながら「天才」が感じられたのは、この作家一人であった。」


うんうん^^

由起しげ子の小説は、はっきり言って、ヘタだけど、その衝動の強さに魅力を感じました。
と同時に、船橋聖一の指摘が現在でも有効なことにガックリきて、笑ってしまいました。

追記 : 念のため(この不自由さ、笑)、
型と文体は違うと思うんですけど。文体はその人の文章のことで、型は誰でもが使い、誰もが使いまわすことができる、文章教室などで教えてくれるアレではないかと。

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