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芥川賞全集4~第21回『確証』小谷剛

『本の話』由起しげ子と同時入賞した、小谷剛の『確証』を読みました。選考委員の船橋聖一に奇妙な推され方をして入賞したわけですが、船橋は、こう言っていましたね。

日本の文壇では、堅実な作風というものは、案外に、地盤を持っている。その反対の作風は、どうしても、達者すぎるという批判を受けがちであって、好意をもたれない。小谷剛などは、後者の典型だろう。(同・395頁)


てっきり型のことを言っているのかと早合点しましたが、じっさいに読んでみますと「典型」というほどでもなかったです。まだ感想文を書いていませんが全集1に入っている石川淳くらいの書き方であれば分かるのだけれども・・・。
おそらく船橋が言いたいのは主に内容のことで、悪い人が書いた小説だから「好意をもたれない」くらいの意味でしょうか? 内容にかぎらず小説全体のようすを見てみても、「達者すぎる」というのはよく分かりませんでした。

その内容ですが、じつに正直に書かれているというか・・・、こんなのは嫌いだといったような意味のことを選評欄から拾うたび、対面したくない自己と合わせ鏡で鼻をくっつけてしまいそうで、危うく、不快なのかしら、男子、などと、よけいにナナメ読みしたくもなりますが、「女」を前にした場合など特に。この小説の題名の横の一文、<おのれをあばくことも所詮は自己弁護の一手段であるかも知れない>と括ってあれば、さほど恐れおののくこともなかろうかと思われます。

小説の主は二十代半ばの婦人科医(男子)で、ある日、十七、八のうら若き女子が病院へやってきて「出血するんです」と言います。彼女は流産しているらしく、男子は、この女子との肉体関係をくわだてますが、女好きの遊び人がウヘウヘ言いながら通り過ぎるだけの欲望の対象として狙いを定めたわけではなさそうです。題名が『確証』とあるように、実体のないものの実体を確実に掴むための、肉体を奪う行為だと解せます。じぶんの実体を確かに証かすがごとくに競り勝つ必要があるようです。この男子はそう言っています。

私がこんなものの考え方をするようになってから、もう六年ばかりになる。そのいきさつについては、以前に書いた小説のなかで、簡単に触れておいた。要するに、女に失敗したのである。愛情などというものが、いかにうそっぱちなものであるかを教えられたのである。抱き合ってみたところで、泪を流しあってみたところで、結局は、お互いがどうにもならない自我をかかえて、同化のまねごとに過ぎない遊びに酔っているのである。一皮剥けば、憎悪が皮下脂肪組織のように、ぎらぎらと浮び上って来る。どたん場に追いつめられれば、むき出しな自我だけが取残される。そして私は、頬ずりしたいほどの気持ちで、私の自我を信じた。自我は、行く手にあるすべての障碍物を手段をえらばずおしのけようと試みる。――六年間、漁色に等しい生活だった。自我を基底とした闘争が、それを支えた。そしてその勝利を決定する唯一の「確証」こそ、肉体の獲得であった。(同・60頁)



マジメに悩んでいます。
目のまえで何が行われ、つまりそれはどういうことなのかと一生懸命に分析しています。てのひらを開いてみては閉じてみたり。じぶんの、てのひらを、なんども開いて閉じるのです。一人称で書かれているので致し方ないのかもしれませんが、それはもう善良な市民以上に善良なほどにグーパーしています。じっさいにそのような描写があるということではないけれど。

競り勝つためには少なくとも、対峙する相手はじぶんと同等かそれ以上でなければ戦いにはならないと思いますが、いちいちの戦いにおいて相手の出方、顔色、周囲全体の様子、そして自分自身の胸の内や行為の意味などを振り返り分析し、その行き方がまるで、勝つための戦いというよりも、むしろ負けるために戦っているかのようにも見えてしまい、じぶんと同等それ以上どころか、ずっと下に置かれているかのようにも見えるわけです。

なので、うんと飛躍して、このさい冒険して書いてしまえば、

女で失敗し、傷ついたまま、埋めようもない空白を置き去りにして、踵にチカラを入れて女から女へと挑むかたちで脇腹を蹴っているように見えて、その空白が自ら嘔吐するかのように浮び上ろうとする現在の「私」の足首を掴んで放さずに、つねに負けの位置へと吐しゃ物ごと押しやっているように私には見えてしまうのですが。

ところが小説としてはそこはまったく書かれていなくて、表面的に、何某の女と出会い経緯はこうで、気持ち悪いだとか何だとか、上品な人が読めば、オエッ、となるようなことばかし書かれているわけです。障害のある井口夏子が出てきますが、性交におよび、「これは、しゃりこうべとしゃりこうべとの接吻だ。」、などと、まぁ酷いことがいっぱい書かれてはいるけれど・・・。

表面は、情け容赦のない悪人の物言いで、その実、フォローするみたいにして善良な市民よりも善良な振り返り分析をし、こういった書き方は確かに底が浅い印象で、しかし、こういう人間もいたという、まるっと表現された小説として読んでみれば、それほど悪い小説ではないと思います。

『確証』は、勝たねばならないさまを、そこにフォーカスして書かれた小説のようです。だから<おのれをあばくことも所詮~>と書かれていたのかも。グーパーに余念がなく。自慰せざるを得ないというか。

埋めようもない空白に密着したら、どうなったのかな・・・?
グーパーできなくなるほどに。みっちりと。

Weblio : 小谷剛
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