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太宰治のよさはまだ言えていないが

「小説を書く」というお題で某同人誌に載せてもらった文章です。
途中まで・・・。

十九のとき、世の中には、いろんな扉が開かれているのだということを知り、私は、たちまち、迷子になった。それまでつながっていた電話が、つながらなくなったような、そういう、ひとりぼっちを、感じた。小説と向き合ったのは、それが最初だと思う。

――死のうと思っていた。ことしの正月。よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。(『晩年』太宰治・新潮文庫

この人は、なぜ小説を書くのか。どうしてこんなことを書くのだろう。書いたところで救われやしない、それどころか人の目にさらされて、痛い目にあうかもしれない。苦しいのなら、黙ってやり過ごしてしまえばいいものを、この人は、書きつづけて、どうやら最後には、ほんとうに死んでしまったらしい。生きているときも、死んだあとも、やっぱり悪口を言われつづけているらしい。はじめから、わかっていることなのに。この人は、それでも書いた。
『晩年』は、太宰二十七歳のとき出版された、遺書のつもりで書いた、処女短篇集だと言うが、この一冊を書くために、十箇年を棒に振り、市民と同じさわやかな朝めしを食わなかったそうである。
つながらない電話に、ひとりぼっちを感じている人が、ここにもいる。
昭和十一年に書かれた太宰の小説を、今日の友として出会い、私は初めて向き合ったのだ。


太宰のことやその小説について感想文を書いてみたり、
その他むかし昔に書かれた小説を読んで思ったことを書いてみたり・・・。
私が生まれるまえに、へたすると作者は亡くなってしまい、作品だけが残されて、いまごろになって私などが書物のページを開いてみたりするのです。

ふと、ヘンな気持ちになります。
作家は死んだりしないと勝手に決めつけているようです。

昨日今日書かれた小説を読んでいるつもりでいます。
いちど気の許せる友達になれば生涯友達で在り続けます。
付かず離れずの距離で生涯見守り続けます。
もう死んでいないとか古典だよとか私にはどうでもいいことです。

これまでだって、小説は読んできたし面白いと思ったこともあるし、
そういえば不倫関係になりそうでスンデのところで振り切った物書きの先輩に、最近、どんなのが面白いの、と訊かれて、私は確か、××と答えた記憶があるけれど、いま思えばただ活字を読んだだけで、読んだとは言えないようなお粗末な読書でした。先輩は眉間にシワを寄せて、それ電車のなかで読んだことあるよ大したことないよ? と言っていました。先輩、あなたは正しい。

太宰は、はじめて、膝詰めで付き合ってくれた、作家でした。
ここから始まって、きっとここで、終わるのでしょう。

comment

daza|
最近、東奥日報紙にたくさんの太宰評が連載されていて、時々読むんですが、
kairou さんの太宰についての付き合い方のほうがしっくりと共感。

太宰を「過去の者」として外から見て評論する向きのお話は、なんだかつまんない。
同じく「太宰を読んだ」と言う人の中でも
太宰を存在として、すぐとなりに感じている(いた)方の感性とはまるで違うみたいです。

kairou|
daza さん、こんばんは。
朗読会いいなぁ^^

若い頃に、三鷹の禅林寺や御坂峠天下茶屋、斜陽館と行きましたけど、そのどこかに置かれていたファンの方々が書き込んだノートなどを読みますと、太宰とサシで話している様子でした。みんな「私だけの太宰」へと語りかけているようです。ノートを読みながら、うん、うん、とか頷いて帰りましたけど・・・。

その評論する賢い方々は、すでに誰かが評価した、ルーズリーフの綴りをたくさん持っていて、すぐに取り出して云々できるように、キチッと整理されているのでしょう。ページをめくって出し入れしている、そういう運動を楽しまれているのかも。

ファンの方々が書き込んだノートを読みますと、ほんとうに、さまざまに、読まれているようですヨ。だって「私だけの太宰」ですから。賢い方々に言わせれば「その読み方ちがう」となりますが、読み方に良い悪い、正解不正解ないですよね。読書って個人的な行為だと思うし。

うーん。話が長くなりそうです、笑。
考えがまとまったら私なりに記事を書いてみたいです。

daza|
「私だけの太宰」
そうです、そんなカンジです。
それぞれの感じ方でGOODなんだと思います。

テクニックを駆使してどうにかしてやろう
みたいなのって、場面によっては萎えるじゃないですか。

クリスチャンの友達がいるんですが、
彼はいつも隣に神様がいる感覚なんですね。
「お祈り」ではなく、友達に話すように自然に「お話してる」んです。
この姿勢がぜんぜん変じゃないし、嫌じゃない。
むしろ、強さを感じます。

あ、今度朗読する方も、太宰と交流してます。笑

kairou|
考えがまとまらないうちに暗礁に乗り上げてしまいました。記事にするのを止しておきます><

クリスチャンのお友達の、お話ですが、友達に話すように・・・、という所で、
「対話する」の意味が、偉い方々と私ら読者とでは、そういえば、違うなぁ、と思いました。
現実の友達の場合、相手の言ってることや表情なんかをみて、「ん? こういうこと言いたいのかな」、って私なりに真意を酌んでみたいのですが、これも対話ですよね。こちらから働きかけているのだけれど、向こうからの声を聴こうとして働きかけています。知識などの紙きれと(一方的に)対話しているのじゃなくて。

朗読会は生ライヴですね^^
よく道端でギターをかき鳴らしている人は沢山いるけれど、あんな感じで誰もが道端で太宰を朗読しても面白いかな、と思いました。「私はこんなふうに太宰を読んだよ!」、って感じで。




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