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『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』トラン・アン・ユン監督/ジョシュ・ハートネット/イ・ビョンホン/木村拓哉

トラン・アン・ユン監督はやっぱり凄かった


夏至 特別版 [DVD]


トラン・アン・ユン監督の映画を久々に観ました。もう圧倒的な力の差でその辺の監督では太刀打ち出来ないです。どんな話なのかといったストーリー以前に、これだけの映像を観せてくれるなら、チケット代を支払っても惜しくはないでしょう。いかに他の監督が「のっぺり」と撮っているか、ということでもあるのだけれど・・・。

フランス映画だからというわけでもないです。
たしかにハリウッド的かそうでないかの2種類には分けられるかも。
そうでない場合はアート寄りになって皆に「わからない」と言われるのがオチなんだけど、ならばトラン・アン・ユン監督はゲージツを気取って小難しく煙に巻いているのかと言ったら決してそんなことはなくて、突飛で奇抜な画を「どーだ」とばかりに次々と観せているわけではないです。映画の中では偶発的に、だけどすべては必然的に事は行われてしまっている(過去形)わけです。それをどう撮るのか。表現するのか。伝えるのか。そこが圧倒的な力の差で、トラン・アン・ユン監督は、やっぱり上手いです。いや凄いと思います。

というわけで、この記事、長くなりそうですが、どこもかしこも撮り方は素晴らしいので、いちいち出してゆくとキリがないし、観た人は分かるといった世界なので、1つだけ、ご紹介しておきます。

クラインは過去の記憶に苛まれています。見たものにねじ伏せられている。たとえば切断された女性の胸部だとか。悪夢に目覚め、やりきれなくて、クラブへ行き酒を煽ると、目のまえに裸で踊る、リアルな女たちが見えます。ここで、過去と現在の映像が重なります。ピッタリと重なっていないところがミソで、クラインは認めたくない、背を向けたい。そこで椅子を立ち、踊る女たちに背を向けました。わざわざ椅子を立つアクションを入れています。ところが背を向けたことで過去の映像が逆に生きてきます。悪夢がリアルに目前に広がってゆき、クラインは捕まってしまい、その過去の現実を凝視するより他に仕方がなくなるところまで追いつめられてゆきます。クラインの蒼ざめた静かな表情が印象的でした。

こんな感じで、ひとつ1つ、丁寧に撮られています。それもただ撮るのじゃなくて、手のなかでよく練り込んだ後の映像を出しています。観てる者の肌に吸い付いてくるような体感型の映画で、理屈じゃなく映像それ自体が観客を引っ張り込んでゆきます。このやり方は監督が得意としているところで、過去作品すべてに共通の魅力、才能だと思います。

内容について


ブラックホーク・ダウン


キリスト教は分からないと過去記事に書きました。
「背負ってきた歴史が違うので、それをマクドナルド化して国境なく誰の舌にものせてしまおうというのが、そもそも無理があります。」、というのは、ごく表面的なキリスト教の知識だけで飲み下すと、映画評論家の皆さん間違えますよと言いたいのですが(あ、書いちゃった、笑)。私は分からないので、そこは諦めて書きます。

構成とバックストーリー


まず大まかな構成と各自のバックストーリーについて。

クライン(ジョシュ・ハートネット)は、現在進行形では製薬会社の社長に頼まれて、彼の息子のシタオ(木村拓哉)を捜しています。その間に差し込まれているのが過去の連続殺人犯とのやりとりで、これは幾度となく差し込まれています。クラインのバックストーリーはこの連続殺人犯と対峙したときの自分自身です。

シタオ(木村拓哉)のバックストーリーは彼の父が告白していました。映画の最初の方でクラインが質問しています、どうしてシタオは家を出たのかと。それに対して父は答えています。父は仕事が忙しくてシタオが10歳(だったかな?)の頃から、じかに触れることなく親子の関係を辛うじて維持してきたと。注目すべきは、じかに触れることなく、という箇所です。父を丸ごと正確に把握するために、あるいは父を身近に置いて愛でるためには、シタオは想像しなければならなかった、と思います。映画内の言葉で言えば「同化する」。シタオは必要に迫られて父を想像するために「同化」し、それを繰り返し、繰り返し、子どもの頃から何度も行い続けて来たのかもしれません。特殊能力を持つ人のほとんどがそうであるように、特殊な環境で培養され、必要に迫られて自ら訓練した可能性が高いです。そういったバックストーリーを抱えてシタオは各地を転々としています。現在進行形では他者の苦痛を引き受けていました。

ドンポ(イ・ビョンホン)だけは、まったくバックストーリーが語られていないです。演技でもって観客に想像させる役どころでした。ヒントになりそうだなぁ、と思ったのは、愛人リリを介しての彼の様子と、「恐れている」という言葉です。
リリと一緒に横たわっているときの彼は、母に全存在を預ける小さな子どものようでした。ちらっと甘える表情が見えます。ということは、もしかすると母に恵まれなかった人で、地位や名誉、財産の有無にかかわらず、いつもどこか自分に自信が持てないでいる(だから恐れているのかも)、真ん中に穴ぼこが開いたままの人なのではないかと思ったりしました。
あるいは父が不在か薄情な人で、母は苦労してドンポをそれなりに可愛がって育てたけれど、子どもの「もっと!」に応えてあげられなかった、そういうご家庭で育ってきたか、まったくの孤児であるか、いずれにしても、あまり恵まれた環境で育ってきたとは考えにくいです。残酷、非道、でもリリを一途に愛している現在進行形の彼でした。

主要人物3人の役割について


次に、この3人の関係性はどうなっているのか、
思いつくままに書いてみます。

仮に、シタオをキリストとすれば、ドンポは恐れる民で、クラインはその両方をとりもつ人ではないかと思いました。

クラインは過去の事件で行き過ぎたプロファイリングのような「同化」を経験しています。なので、シタオのやっていること、苦痛を引き受ける、この引き受ける部分が、似ていると思います。もちろんシタオの場合は治癒するところまで持って行くから別物だけど(クラインは最後の最後で突っぱねる)、恐れる民からすれば、ずっとシタオに近いです。

最後の方で、シタオの居場所を聞き出すために、クラインが、ドンポに言っていました。恐れる、こと。でもすぐに、こうも言います。自分は地獄を見てきたのだから、と。このセリフはその前のドンポとシタオの会話に通じていて、2人はこのセリフを分けて使っていました。恐れるなと言ったのはシタオであり、地獄を見てきたと言ったのはドンポでした。つまりクラインはこう言いたかったのではないかなぁ・・・、「ドンポ。恐れるな。俺も本当は恐れているから」。

シタオはドンポに向かってハッキリと「許す」と言いました。
これは必要なセリフだと思います。許すというのは都合のよい甘い言葉ではなくて、その証拠に、ドンポは衝撃を受けたような表情を見せていました。「許す」ことを認めてしまえば自分は弱者となり恐れる者となります。誰に対しての弱者であり恐れる者なのかといえば、シタオに対してです。「許す」と言った者が許される者の上に立つことになるわけです。これが理由の1つ目です。
それでもシタオはドンポに向かって「許す」と言ってやるべきではないでしょうか。キリストの愛は生易しいものではないですね。或る人々にとってみればそうとうな苦痛となりえます。タダで奇跡をかすめ盗るような、許されて当然と思っているような人々とは違います。自分は許されてはならないと責め立てる監視役のもうひとりの自分がいて、大げさに言うと生存の不確かさ、ここに在ることの罪深さというか、それが理由の2つ目として挙げられます。この2つの理由によって、ドンポはシタオを認めるわけにはいかないのです。
なので、許すかどうかというよりも、シタオとドンポの距離が開き過ぎていることに問題があるのではないかしらと。遠過ぎる。だから互いに痛めつけてしまうのでしょう。この2人をとりもつかたちでクラインが入って来ました。

映画のクライマックス、いよいよシタオが絶命するかという危機に立ち会ったクラインが、あなたの父の依頼で私は捜しに来ました、と言います。そのちょっと前にシタオは父を求める声を発しています。そこへクラインがやって来たわけです。ここで映画はぐるっとまわって最初に戻りました。シタオのバックストーリーに戻りました。求めていた父の愛に満たされたシタオは、父の代理であるクラインに救出されて、映画は幕を閉じることになります。

世界で一番美しい 裸 流血 写真



いつか(初回限定盤A)(DVD付)


他に、世界で一番美しいのは苦痛、云々とか、裸の場面が多い、流血の場面も多い、など、この映画の本線に沿った画と言葉が意識的に並べられています。その本線とは何かと言えばキリストのことで、いや、ストレートに、日本人的に想起する、あのキリストのことではなくて、誰のなかにもキリストはいるという、シタオの立ち位置です。このキリストが本線に据えられていると思いました。納得のいく並べ方で、どれも必要な要素だと思います。

予告編で、シタオの写真を多数使用している件について過去記事で触れましたけど。じっさいに観てみると、半々では言い過ぎだけど、シタオと彼の写真と、3:1くらいの割合ではないでしょうか。とても多く使っていると思います。過去記事を書いたときには木村さんの演技力に不安を感じて監督が裏の手を使ったのかとチラと思ったのですが(ごめん、汗)、そうではない、ということが分かりました。

この映画では、表面的にはともかく、人と人とが断ち切られています。それぞれが苦痛の元を抱えています。あの連続殺人犯など純粋な苦痛とでも言いましょうか、苦痛だけを掻き集め、それを試験管に入れて人工的に操作し、美しさにまで純化しようとしていました。これ意外とありがちで、悲しみだけを拾い集める芸術家っていうのは珍しくはないです。そういう歴史を芸術は引きずっています。それだけ苦痛っていうのは身近なもので、誰のなかにも在るもので、宗教とその歴史とも通じる普遍的な何かであると思います。
普遍的な何かとは何か、理屈では説明できないけれど、その何かは、どうして発生したのかと考えてみると、まず人と人とが断ち切られている状況にあり、その条件を満たして初めて人は、苦痛を抱えると思われます。

でもどこかで繋がっています。
求める限り、完全に繋がりが断ち切られることはないです。
どこかで繋がっていながら、触れられない距離に互いが置かれ、苦痛に苛まれている。写真の多用はその距離を強く意識させるものでした。シタオが写っているのにシタオではないのです。クラインが傷痕の写真を繋げて並べていましたが、血が流れる傷痕まで見ているのに、それはシタオではないという、なんというか触れられない悲しみをひしひしと感じました。もちろんこの傷痕の写真は、それだけの理由で持ってきているわけではないけれど。

希望の映画


ジョシュ・ハートネットさん、イ・ビョンホンさんと、素晴らしい演技でした。現場で変更しつつ、よく台本を読み込んで、世界観と人物、それぞれの関係性を理解していないと、演じられない難しい映画ではなかったでしょうか。セリフでストーリーを運んで行くような映画とは違っていて、またエンタメの要素が強い、分かりやすいキリストではなく、誰のなかにもキリストは存在しているのだという、精神的な映画であったから、なおのこと難しい役柄ではなかったかと想像しています。この御二方に比べて木村拓哉さんは正直、苦しかったけど、過去出演作品のなかでは一番がんばったと思います。撮影現場はそうとう過酷な様子でした。

人々の間には距離があり、それが苦痛の根もととなり、恐れる気持ちが世界を痛めつけ、壊してしまっても、誰のなかにもキリストはいて、愛で満たすことも出来るのではなかろうかと。しかしそのキリストもまた父の愛によって愛を満たしているのだろうと。大雑把ですけど、無理矢理に、理屈で言えば。

希望が底の方で小気味よい音を鳴らしています。
最後に、じんわりと、あったかくなるような、映画でした。
サントラも良かったです。ようやくシタオを見つけてクラインが抱きかかえるところなど、りんりんと、いい音が鳴っていました。

トラン・アン・ユン監督映画DVD発売日順
キネマ旬報 2009年 6/15号 [雑誌]
夏至 特別版 [DVD]
ブラックホーク・ダウン
いつか(初回限定盤A)(DVD付)

comment

たかこ|
kairouさん、お久しぶりです~^^

「アイ・カム」の感想、面白いです。
kairouさんにケチョンケチョンに言われたらどうしよー、って実は不安だったですよ。

↑のキリスト的なもの、これすごく腑に落ちます。
あちこちの感想を読んで、
「これはキリストを土台にしていて、クラインが誰で、リリはマグダラのマリアだ、いや聖母マリアだ、云々」とか見ると、何となく、そんなきっちり決め付けるもんなのかなあとちょっと違和感があったんですよ。
karouさんの「誰のなかにもあるキリスト」っていうのは、すっと入ってくる気がします。
最初に観たときは、シタオが磔にされるときの「ファーザー」は、絶対キリスト教の父、「主(神)」だと思いましたが、何度も観てると、いや、ふつうに「お父さん」でいいんじゃないかな、という気がしてきました。
確か、監督もインタビューで
「あんまり、キリストっていうのにはこだわっていない」みたいなこと言ってたのでよけいにうなづいてしまいました^^

そうそう、ビョンホンssiのインタビューでドンポの背景について、
「孤児院育ちで、リリとはそこで兄妹のように育った。ドンポの初めての殺人もリリは目撃していて、彼にとってリリはすべてを打ち明けられる存在」と言ってました。
私はこのインタビューで初めて知ったんですが、やっぱり映画本編だけでもちゃんと観てると背景もわかるんですねー。kairouさんの分析にちょっとびっくりしましたよー。

それと私もこれ絶対「希望の映画」だと思います。
酷評する人と評価する人、みごとに真っ二つってかんじですけど(^^;)、観て癒されるっていう人もけっこういてあんしんしました。

kairou|
たかこさん、おはようございます、お久しぶりです^^

土曜の夜に観て帰宅後に半分書いて、翌日2回に分けてもう半分書きました。ぶっちゃけ、この記事を書くのにほぼ半日かかってます、笑。
こんな場末のサイトなんて誰も見ちゃいませんが、それでも意思表示はするべきだ、とか思って。

無理矢理に理屈で説明するのに苦心しました。トラン・アン・ユン監督の映画は皮膚から入ってきて頭じゃない別のところで理解するという特徴があると思うンですけど(私の勝手な意見だけど)、検索で読ませて頂いて悲しい気持ちになって、こんなに丁寧に撮られているのに、俳優さん方も、いい演技を見せてくれているのに、あっ、あんまりよ(泣)、みたいな、それで無理矢理に書いてみました。自分で読み直してみても、かなり苦しい書きようです。たかこさんが仰っている、そんなに簡単に言えるものか、みたいな、私もそれは深く同意します。「仮に」を外しちゃイカンですよ~。

たぶん、キリストが分からないということと、見た目の「ヘンな感じ」に持って行かれちゃって、お決まりのコースを辿っているのではないかと。分からないもの不快なものには、とりあえずダメ出しする、というあのパターンですけど。

どこから入っても辿り着けると思うンです。もしもキリストから入って行くとすれば、ごく表面的な知識では、それは偏見にまみれているので、おのずと偏見にまみれた感想文しか出てこないと思うンですけど。

>最初に観たときは、シタオが磔にされるときの「ファーザー」は、絶対キリスト教の父、「主(神)」だと思いましたが、何度も観てると、いや、ふつうに「お父さん」でいいんじゃないかな、という気がしてきました。

そこは重ねているのじゃないかなぁ。
でもクラインが救出するとき頭の冠を取ったから、ふつうに「お父さん」なのだ、ということでしょうね。シタオだけがキリストではなくて。

それで、ビョンホンさんの、インタビュー、おお、そうですか(嬉)。っていうか、そういう人になっていましたヨ^^

>それと私もこれ絶対「希望の映画」だと思います。
酷評する人と評価する人、みごとに真っ二つってかんじですけど(^^;)、観て癒されるっていう人もけっこういてあんしんしました。

意見が分かれるっていうのは、いい映画なんです。観客に強要していないから、観る人の裁量に任されている、と思うンですけど。トラン・アン・ユン監督らしいじゃないですか。5年後10年後に観たら、また別の感想を言いたくなるかも。それにしても酷い感想文もありましたけど、笑。

この映画の希望は、「希望あります」ってデッカイ看板が掲げられているような希望じゃなくて、どこかの草むらにでも、そっと置かれて息づいているような希望だと思います。

長い記事でした。
たかこさん、読んでくれて、ありがとう~^^



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