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『自然と人間の哲学』内山節



若い頃に読みました。
うしろを見ると第一刷発行1988年となっています。

神谷美恵子 と同様に、自分なりに感じ入るものがあったのか、たくさんの線が引いてありますが、エピクロス、エンゲルス、マルクス、カントなどを交えながら、また「昔は良かったね」的な話でもないよとも書かれているけれど、それらは抜き出さないで、内山節氏がじっさいに経験された内の、1部分だけを抜き出すことにします。これは宮本常一『忘れられた日本人』とも通じる内容だと思います。



「山の畑の耕作をはじめた頃、私は村の人々の使うある言葉のなかに面白い使い分けのあることに気づいた。それは「稼ぎ」と「仕事」の使い分けだった。
“稼ぎに行ってくる”村人がそう言うとき、それは賃労働に出かける、あるいはお金のために労働することを意味していた。日本の山村は農村よりもはるか昔から商品経済の社会になっている。食料を十分に自給することができず、自給自足的な生活を不可能にしてきた山村の社会では、昔から交換が生活のなかに浸透していたのである。その結果貨幣を求めて賃労働に従事することは、農村よりも早い段階から村人の生活の一形態になっていた。
しかし「稼ぎ」は決して人間的な仕事を意味してはいなかった。それは村人にとってあくまでお金のためにする仕事であり、もししないですむならその方がいい仕事なのである。
ところが村人に「仕事」と表現されているものはそうではない。それは人間的な営みである。そしてその多くは直接自然と関係している。山の木を育てる仕事、山の作業道を修理する仕事、畑の作物を育てる仕事、自分の手で家や橋を修理する仕事、そして寄合いに行ったり祭りの準備に行く仕事、即ち山村に暮す以上おこなわなければ自然や村や暮しが壊れてしまうような諸々の行為を、村人は「仕事」と表現していた。
もちろんこの「仕事」は収入に寄与する場合もある。理想的にいえば、村人は「仕事」をして、その結果生活もうまくいくことを望んでいる。しかし現実にはそうはいかない。賃労働に出て貨幣を得なければ山村の生活はなりたたないのである。そこから生まれたたくみな使い分け、それが「稼ぎ」と「仕事」であった。(中略)
ある表現をとるなら、村人は使用価値をつくりだす、あるいはそのことが直接みえる労働を「仕事」と表現し、貨幣を得る労働を「稼ぎ」と表現していたのである。だから村の子供たちが都市に出て、すでに何十年も会社勤めをしているときでも、村人は“子供が東京に稼ぎに出ている”と表現した。サラリーマンになることは村人にはどうしても「仕事」とは映らなかったのである。同じように、たとえば山の木の下枝を伐りに行くときでも、そこに自分の主体性が発揮できるとき、労働を自分の手で工夫できるときには村人は「仕事」に行くと表現した。誰に命令されるわけでもなく、労働の結果がいつの日かお金になるかどうかもわからない。しかし下枝を伐り、木を育て、自然と人間の交流を培っていく行為がそこにはある。
ところが全く同じ労働をするときでも、たとえば営林署の下請仕事のようなかたちで下枝を伐りに行くときには、それは村人にとっては「仕事」ではなく「稼ぎ」だった。なぜならそれは営林署の計画にしたがって作業をするだけであって、労働の主体性が村人の手にはなくなってしまっているからである。ここでは村人は木を育てているのではなく、お金と引き換えに作業をしているだけなのである。
この「稼ぎ」と「仕事」の使い分けは、時に“他人仕事”と“自分仕事”と表現されることもある。“他人仕事”とは他人のために汗を流すことではなく、他人の下で働くこと、即ち賃労働を意味している。それに対して“自分仕事”とは自分が労働の精神的力能をもっている仕事である。“他人仕事はお金にはなっても疲れるばかりでつまらんもんだ”というような言い方になって、それはあらわれる。
「仕事」と「稼ぎ」の境界がはっきりしない都市に暮している私には、山村の人々のこの使い分けが快かった。とともに、ここにはいくつかの重要な問題が含まれているようにも思われた。そのひとつは村人の労働感覚が、使用価値をつくる労働が仕事であり、貨幣のためにする労働は稼ぎであるというところから成り立っていることである。だから「仕事」の世界は広い。人間が生きていくうえでおこなわなければならない諸々の行為、それがすべて「仕事」のなかに含まれる。(以下略・同12p~)」


忘れられた日本人を忘れてしまうことで、とても狭い世界に閉じ込められて、そこで空転する理屈がさらに世界を狭めているのではないか、と。
さまざまな言葉の意味は、この狭い世界で語られているように思われます。

「人間が生きていくうえでおこなわなければならない諸々の行為、それがすべて「仕事」のなかに含まれる。」

諸々の行為。いまとなっては意義を見出せないほど些細な行為も含まれていることでしょう。だから宮本常一氏とこちらとまったく「あたりまえ」の話ではないのです。この狭い世界にどっぷりと浸かっているから(空転するだけだから)、「あたりまえ」に見えてしまうのでしょう。

田舎で暮そうキャンペーンを行っているわけではないです、笑。

たとえば労働について。
かつての人々から教えてもらうことは、多いです。

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